2010年4月アーカイブ
R「本日をもってこのブログでの活動を一時休止されるとのことですが一体なぜこのタイミングなんですか?」
一憩「だって俺、この1年2ヶ月の間に4枚ものアルバムを作ったんだよ。そんな馬鹿、見たことあるか?今月の頭に4枚目のアルバム『闇独楽』をリリースしたあとも休むことなくダアーッと書いてきて、これで484本目だぜ?ちょっとぐらい休んだって誰も文句言わねえだろ?」
R「今回の休止に当たって、阿仁真里さんには相談したんでしょうか?」
一憩「もちろんしたよ。で、真里には「500本到達。5枚目のアルバム完成まであともう少しなんだから休むのはそれからにしたら?」って言われたけど、俺としてはもうこのタイミングしかないと思って、「頼む!」って手を合わせながらたっぷり時間をかけて説得したんだ」
R「で、真里さん、何ておっしゃってました?」
一憩「「ま、辞めるわけじゃないしね」って笑顔で頷いてくれたよ」
R「そうですか。では復帰はいつ頃になりそうですか?復帰の遅れは直接、新作完成の遅れに繋がりますよね?その間に読者が離れていってしまうんじゃないか?という不安はありませんか?」
一憩「正直、その不安がないとは言えない。でも、俺はそんなに長期間休むつもりはないし、ほら、俺、過去にも2度「休む」って言ったけどすぐに戻ってきたろ?だから大丈夫だと思うよ。読者のみんなも大して意に介してないと思う。だって変な話、ここの読者は俺以上に俺のこと知ってんだから(笑)そんなブログ、他にあっか?」
R「そうですね。その通りだと思います(笑)では最後に、このブログの読者の皆さんに向けてメッセージをいただけますか?」
一憩「読者のみんなにはこう考えて欲しい。一憩はちょっと長めの散歩に出掛ける。そしてその道中で何かしら得て、リュックサックいっぱいに詰め込んで必ずここに帰ってくる。なぜならここが俺の家だから。俺と読者のみんなの秘密基地だから。こんなのでいい?」
R「バッチリです。本日は本当にありがとうございました。ではまた3日後にお会いしましょう」
一憩「おいおい、いくらなんでもそんなに早くは帰ってこねえよ(笑)」
世の中であまり良くないとされている幾つかのこと。
例えば「弁解」
例えば「自画自賛」
例えば「自己憐憫」
薬は一歩間違えりゃただの毒だし、あらゆる便利な道具も使い方を誤ればただの凶器、大怪我のもとだ。逆に、悪臭は薄めて使えば高級な香水の素になるし、毒舌がとある心境の人間を救う場合だってある。何をどう扱うのかなんてのはそれを手にしている人間の勝手だし、そういう部分にこそその人の想像力なり発想力なりが如実に現れるんじゃないかと思う。
世の中には電気ドリルでギターを弾く奴だっているんだから。
窓ガラス一枚隔てた向こう側に雲ひとつない晴天があって、何だかよくわからんが猛烈に急かされる感じがあって外に出てみたがやりたいことが一切なく、やりたいことが一切ないから必然的に行きたい場所というのも一切思い付かず、とりあえず最寄りの駅まで行ってみたものの天六商店街にさえ行きたいとは思えず、駅の喫煙所で煙草を一本だけ吸って帰って来たのであるが、帰って来たら来たでまた窓の外の晴天が気になって、急かされて、CDウォークマンの中のCDを最近聴いたものの中で最低、抜きん出てくだらないミックジャガーのソロアルバムからエコーベリーの『ラストラ』に代えて再び外に出ようとしている俺みたいなのを浮浪者という。
コメント、ありがとうございます!全然場違いなことないですよ。もし何か場違いだと思わせる要素がこのブログ上に漂ってるんだとしたらそれは由々しき事態で、俺としても早々に何らかの手を打つ必要があるというものです。
ところで、「イマジネーションの連鎖反応」という言葉が俺としては実に感慨深かったです。「あ、そういうことか!」と思いました。自分が町田康の文章に強烈に惹かれる理由と、自分が自分の中に日々着実に成長して欲しいと願っているものの正体が、同時に判明したような気がします。「イマジネーションの連鎖反応」まさにこれです。
あと、バロウズです。すっかり忘れてましたが、バロウズです。高校の時、「いつか絶対読もう」と思っていた『裸のランチ』。俺はこれを読みます。思い出させてくれて本当にありがとうございます!
教えを乞うて正解でした。合掌!
暴力、無視...ありとあらゆるイジメを受けて自暴自棄になった天使のような声だ。
何も掴めないままに1ヶ月が経過してしまった。
病院が上新庄にあるから上新庄に来た。
「どんだけ待たせんねん...」苛立っていると待ち合い室に見たことのある顔ひとつ。
あの時、あの工場で一緒に働いてた奴がいた。
阪急上新庄駅高架下。
数年前、この道を歩いて、輸出用携帯用レンズを造る工場に出勤していた。
「働いても働いても..」嫁の金使いの荒さを嘆く中国人。しょっちゅう遅刻してきて「大急ぎで来た」と言う割りには髪型、しっかりツンツンにセットされていた、天王寺は新世界在住、目に障害を持つ、めちゃくちゃ優しい奴。仕事めちゃくちゃできるのにめちゃくちゃ自己評価の低い、一番歳上の、みんなから「兄貴」と呼ばれていた、俺が社員に隠れて絵を描いている間「見張っといたる」って言ってくれた奴。「俺、競馬さえできたらええねん」とぶっきらぼうに言って、人との関わりを極力持たないように持たないようにしているが、一度心を開くとめちゃくちゃ優しい奴。「どうせクビになるんやから」な空気が工場全体に蔓延して、全くヤル気のない同僚たちを尻目に、どうせクビになるのに来る日も来る日も箒と塵取りを手に掃除してた奴。毎日、須磨から電車で通って来ていたブラジル人の女の子。
本当に色んな奴がいて、みんな、仲が良かった。そしてみんな、それぞれにそれぞれのコンプレックスみたいなものを抱えていた。俺も含めて、実に多種多様な人間がいたが、あそこで働いていた奴ら全員が共通して持っていたものは「こんなとこで働いている」という耳鳴りのような劣等感だった。
あの工場後の人生、誰一人として「成功」する奴はいないかもしれない。でも、誓って言えるのはみんな、あの時、もうちょっと自信を持って働いても良かったなということと、みんな、本当にええ奴だったということだ。
まずは俺がこの文章を寄せている時刻を見ていただきたい。まだ昼前でしょ?
今、俺は電車に乗っているが、隣に座ってるオールバックの、かなり貫禄のある重役然とした男の人の手元にある物に目が釘付けになった。
ビールだった。
「夜中の焦燥」と「夜中の喪失」に関しては、どなたもコメントを寄せてやらないでください。この二つの文章は誰に意見を求めるものでもなく、ただここにあるということが一憩にはものすごく大事なことなんです。よろしくお願いします。
自分の中に、自分が駄目になっていくこと、ただの怠け者と化していくことに対して抵抗しようとするものを生み出そうとするものが無い。
特にこれといった方向性もなくただ漠然と何かに頭を悩ませて、特にこれといった示唆的な光景に出くわすこともなく何の引っ掛かりもなく時間が流れていって、特にこれといった答えも見い出せないままある日誰に言われるでもなくタイムオーバーを感じて、特にこれといった希望や気力も持たずに元いた場所、元歩いていた道に戻ることになったとしたら、俺はまたすぐにここに戻ってきてしまうんだろうなという焦り。
晴天。
そういえば俺、昔、『青空』って曲を書いたがあれはアビィがいなかったら絶対に書けなかった。バンドってそういうこと。ソングライターってそういうこと。
剣吾くんがいたからできたこと。アビィがいたからできたこと。そんなこんなで俺の音楽。
「人はひとりでは生きていけない」って言葉があって、俺は本当はこの言葉がかなり嫌いなんだけど、ホンマはわかりすぎるくらいわかってるんよ、本当は。
バンドマンやもん。
最近、本当に、自分でもびっくりするくらいすぐに泣いてしまう。のに、あろうことかこのタイミングで中古CD屋でレノンのアルバム『イマジン』を手にとってしまった。
実は俺、「息子」であるにも関わらず今まであえてこのアルバムには手を付けて来なかったのである。が、どんな曲が入っているのかは悲しいかな、知り尽くしている。両親が何百回、何千回と聴いてたし、俺はそれを母親のお腹の中にいる段階ですでに飽きるくらい聴いてたから。ただ、あえてCDで綺麗な音で聴くという行為はことこのアルバムに関しては今までずっと避けてきたのであるが、今日、魔が差して聴いてしまった。
「Oh My Love」「How?」でガタガタっときて、「Oh Yoko!」で決壊してしまった。
こんなに魅力的な男って他にいるだろうか?こんなにいとおしい男って他にいるだろうか?こんなに可愛らしい男って他にいるだろうか?
ヨーコは死ぬまで再婚しないだろうけど、それはものすごく自然なこと。
どこに行っても誰かいる。
皆さんご存知の通り
『DVD』は「ドメスティックヴァイオレンス道場」の略である
皆さんご存知の通り
『VHS』は「ベトナム産ホルスタイン寿司」の略である。
皆さんご存知の通り
『PTA』は「ピンポンダッシュ隊エアロスミス」の略である。
皆さんご存知の通り
『BMW』は「便座また割れた」の略である。
皆さんご存知の通り
『NHK』は「日本変化球協会」の略である。
皆さんご存知の通り
『NTT』は「ナチスと友達」の略である。
皆さんご存知の通り
皆さん、ご存知の、通り。
「終わらせて、新たに始める」べきことが自分の内外に山積みになっているような気がする。でも、どれから着手すれば良いのかがわからないし、ものによっては終わらせることはできても始めることのできない、要するに目と鼻の先の未来に対して選択肢的なものがただの一つも見当たらないものも幾つかあって、そんなこんなで気付けば立ち往生している、昨今の俺なのである。
カートが大好きだったヴァセリンズの「モーリーズ・リップス」と、お馴染み「ハングリー・マン」の2曲だけを歌って、一憩は「帰ろ」と私に言って小屋を出た。そして私に一言、「俺、やっぱり、場違いやった」と言った。
いや、いやいやいやいや、そりゃそうでしょうよ!それを承知の上であなた、今日、ここに来たんじゃないの?と、内心思ったが私、何も言わなかった。言えなかった。
大変だ。この人大変だ。この人とずっと一緒にいる私、もっと大変だ。
結論を言うと、ピストルズの『勝手にしやがれ!』と、ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』こそが唯ニ、「パンク」を名乗る資格を有するアルバムだと思う。
そもそも、「パンク」なるジャンルが存在すること自体、おかしいと俺は思う。というのも本来、「ロック」は「パンク」だからだ。いつからか「ロック」と「パンク」が別々に語られるようになったが、それはたぶん、「ロック」が商業化されて、去勢されて、オカマみたいになってしまったからで、もし「ロック」が本来の姿であり続けていたとしたら「パンク」なんて言葉は生まれなかったはずで、でも現実問題、「ロック」はじゃんじゃんじゃんじゃん堕ちていって、そんな中、緊急、「パンク」なる新たな言葉を生まざるを得なかった人々の会議録はたぶんこんな感じだったんじゃないかと思う。「もう「ロック」はあてにならん!あれは今やインポ野郎のやる音楽だ!だから何か別のもの...何でもいい。とりあえずまずは我々が新たに立ち上げようとしている「これ」の名前から決めようではないか、諸君。適当に決めようではないか、諸君。え?パ・ン・ク?それいいねえ!なんかいいねえ。ようわからんけどいいねえ。よし、じゃ、金輪際「パンク」だ!」
だから、「ロック」はあの『勝手にしやがれ!』が発表された年、俺が生まれた1977年に一度「見捨てられた」んだと思う。「このオカマインポ野郎が!」って。
で、話を冒頭に戻して、なぜピストルズの『勝手にしやがれ!』とニルヴァーナの『ネヴァーマインド』こそが唯二、「パンク」を名乗る資格を有するアルバムだと言えるのかと言うと、この二枚こそが「ロック」を確実に、しかも一撃で覚醒させた「ロック」に対する「目ぇ覚ませやコラァ!」だったからで、そんなアルバムはこの二枚以外にはどこをどう探しても見当たらないからである。
というわけで、要するに俺が何を言いたいのかと言うと、俺にとって「パンク」というものはいつの時代も「ロック」に対する「ロック」じゃなきゃいけないということで、「ロック」に喝を入れようとするものじゃなきゃいけないということで、もしそれができんと言うのなら「パンク」などと絶対に名乗らさんし、呼んだらんぞボケ!ということなのです。
わかる?
俺みたいな怠け者でも激動なんだから、皆さんは、皆さんの人生はもっと激動なんだろうと思う。
俺はただ立っているということに必死だ。でも皆さんはしっかり立っている。立てている。本当に凄いと思う。皮肉じゃなくて、心から皆さんを尊敬しています。
実際は「一大決心!」ってほどでもなかった。俺にはもうそれが過去の自分の権化にしか見えなかった。決断する前に手にとって、じっと眺めてみた。傷だらけでガタガタだった。そして、その傷やガタガタ加減を見ても不思議なくらいなんとも思わなかった。傷に、ガタガタに何の感慨も抱けなかった。
リッケンを売った。そして、その売った金で新しいギターを買った。が、その新しいギターが早くも埃をかぶり始めている。
正式加入とかそんなんじゃなくて全然構わない。ドラマーを、乞う。
例えば、さかえさんが最高に気に入ってるTシャツが一着あるとして、これを最高に気に入ってるからと言って一年中、365日、着続けるわけじゃないですよね?
この国には四季があって、暑い日もあれば寒い日もあって、日々変化する天候もあって、そんな中で季節や天候以上に目まぐるしく変化する自分の心境の変化というものがあって...人間、お気に入りの服は一着じゃ到底足りないわけです。同様に、俺が「U2」なる服を気に入ってるからと言って、これを一年中着続けるというのはかなり辛いものがあって、俺は一年を通して本当に色んな色の、形の、お気に入りの服を着るわけです。
俺的には「オアシス」なる服と「ビートルズ」なる服が基本的には自分に一番似合う服だと思っています。でも、この二着ともしっくりこない時というのが長期短期を問わず365日の中には必ずあって、来て、そんな時には「U2」を着たり、「スマパン」を着たりしています。
そういうことです。
「最初は良かったんですよ。いや本当に。最初は良かったんです。でもね、途中からね...ってお恥ずかしい話、私にはその「途中」がいつのことだったかさっぱり思い出せないんですけどね(笑)でも、途中からだったということは確かなんですよ。途中から確実に、そして着実にあれがこうなり始めましてね...って度々すいませんが私には正直「あれ」が一体何であったのか、そしてその「あれ」が途中から確実かつ着実にどうなり始めたのかということに関してもさっぱり記憶がないんですよ。いやはや、本当に情けない限りです(笑)でね、ま、ちょっと話が横に逸れてしまいましたんで元に戻させて頂きますとね、ま、本当に残念なお知らせで申し上げにくいんですが、経緯といたしましては先程から申し上げて参りましたようなことでございましてね、で、その結果がこれです!」
一憩の寝言がうるさくて眠れない...。
たった今、一憩の枕元にペンと紙切れを発見した私。紙切れに何やら書いてあったので読んでみたらこう書いてあった。
持ち上げるから重い。はなっからそれが好ましい高さにあれば持ち上げずに済むわけだから、重い思いをせずに済むわけです。ところで今日、町田康の詩の中に素晴らしい一節を見つけました。『人であることは腰が痛いこと』どうです?素晴らしいでしょ? 一憩より
...誰宛の、何の為の手紙だろう?これを受け取った人は一体どうすれば良いんだろう?一憩はその人にどうして欲しいんだろう?さっぱりわからない。あれ?よく見たらこの下にもう一枚紙切れがある。これにこの謎を解く鍵みたいなものが書かれてあるのかな?見てみよ。
阿仁真里へ。
「レノンがリーダーであるにも関わらず、ビートルズの音楽が決して重苦しくならなかったのはレノンの隣にいつもポールがいたからだ!」とか何とか上手いこと言われて、言いくるめられて、私は今後も引き続き一憩と一緒にこのブログを盛り上げていくことになりました。
嫌じゃない。決して嫌じゃない。文章を書くのも写真を撮るのも好き。でもな〜んかムカつくなあ。
俺は本というものをほとんど読まない。というのは以前にも申し上げた通りで、俺は本当に「読書」なる崇高なことをほとんどしないし、してこなかったし、あまり好きじゃない。「じゃ、嫌いか?大嫌いか?」と言われるとそれはそれでまた違うんだけど、とにかく、ね。
中でも「古典」とか、それこそ「古典の名作」とか言われているものに対しては自分でもびっくりするくらい自分は興味が持てない。回りくどいとしか思えない固い文体が生理的に苦手だし、いわゆる「風景描写」がちっとも頭に入ってこず、読んでいてただただ面倒臭い。
ただ、そんな古典嫌いの俺にも、古典と呼ばれる書物にも関わらず愛読したものがごく稀にではあるが幾つかあって、そのうちの一冊がリルケという人の『若き詩人への手紙』というやつだったりする。これはとある無名の詩人が尊敬する詩人リルケに幾度となく「自分はどうすれば良いのでしょうか?」的な手紙を送って、それに対してリルケが返事として送ったその都度の手紙の内容を一冊の本として纏めたものなのだが、俺はどういうわけだか昔からこの本が好きで、愛読して、かなり感銘を受けたのである。
中でも俺が特に感銘を受けたのが、若き詩人が自作の詩をリルケに送り、その感想を乞う場面で、リルケはその手紙に対して自身の手紙の中でこう答えるのである。「他人に自分の作品の良し悪しを問うようなことはしないでください―中略―もしあなたが詩を書かねば生きていけないと言い切れるのであれば詩を書き続けてください。でも、詩を書かなくても生きていけるというのであれば直ちに詩を書くことをやめてください」
俺はこのリルケの言葉をずっと大切にしてきたし、忘れたことがない。そして、このリルケの言葉を知った上でもなお、自分は「やりたい」と思い続けている。
間違いないはずなんです。この道。
例えば、自転車に乗った無数の中国人に無言で追いかけられたら、めちゃくちゃ怖いだろう。
そういうこと。最近、俺がここに文章を書きまくっているというのはまさにそういうことで、そうやって無言で追いかけてくるものから死に物狂いで逃げているかのような感覚がある。
過去に自分が書いた文章、過去の自分の考え方、要するに「過去の自分」の群れが無言で追いかけてくる。そして、この群れを距離的に少しでも引き離そうと思えば、新しい言葉を矢継ぎ早に吐いて、過去のものをさらに過去へ過去へ追いやっていかんとならんのだ。
逃げろ!
あの角を曲がれ!
逃げろ!
このブログをやり始めた当初、俺の中に「CM」というアイデアがあった。自分の書く文章が毎度結構長くて、そこそこ重い内容になるであろうことは書く前からなんとなくわかっていたので、その長さと重さを緩和する為に各文章の合間合間にでっち上げのCMを挟んでみたらどうだろうと思っていたのである。自分の好きなもの、例えば餃子のCMとか、松坂慶子の美しさを讃えるCMとか、町田康の新刊発売を告知するCMとかいったものを、何とか上手いことでっち上げて、各文章の合間合間に挟んだら面白いんじゃなかろうか?と思っていたのである。
TVで非常に緊張感のある映画やドラマを観ている際、合間合間に挿入されるライトなCMでホッと一息付けたりする。あの感覚をブログ上で表現できないだろうか?と、なんとなく試行錯誤してみたのだがこれが実際にはなかなか難しくて実現させられなかった。
が、最近、たまに載せる写真が上手いことそのCMの代わりになっていることに気付いた。俺自身、文章の合間に写真を載せる瞬間、とてもホッとする。一息付ける。だから、読者の皆さんにも写真でホッと一息付いてもらえたら嬉しいなと思うし、たぶん俺の中にも無意識だったとは言え、そう考えてる部分が少なからずあったからゆえに最近、写真を載せることが多くなってきていて、そんな経緯、動機だからゆえに花の写真が多いんだと思う。
とにかく、その辺のブログとは一線を画したものにしたい。この気持ちはこのブログをやりだした一年ちょっと前からちっとも変わっていない。
たまにはこうやって冷静に、自分のブログの構造的なものを振り返るというのも悪くない。ゆうても今や、このブログこそが俺の生き甲斐やしね。
楽しいです。
俺は、俺のことを「もの創り」だとしか思ってない人の為だけに生きたい。
俺は、俺のことを「もの創り」だとしか思ってない人の為にのみ、結果を出したいと思う。
俺は、俺のことを「もの創り」だとしか思ってない人の為ならなんでもする。
本当はもっとできる。もっともっとできるはずの人間。
学生でもないのに勝手に大阪芸大に通ってた19の時、とある芸大生の部屋に招かれて、5、6人の特に親しくなった奴らと一つのテーブルを囲んで朝まで語り合って、呑んだ。その中で「みんな詩ぃ書いて、発表し合おうや」などと提案する身の程知らずの馬鹿がいて、発表し合うことになった。
俺は「俺の賞味期限のないスケジュール表は」というフレーズから始まる6行くらいの短い詩を書いて読み上げた。
気付くと俺の隣で、俺のそのくだらない詩を聞いて泣いている女の子がいて一言、「すごい」と言った。
数日後、この子が俺にとって生まれて初めての彼女となった。
昔、バンドをやってた時、とあるバンドマンに言われて驚いた一言がある。
「一憩さんはアレですね。名曲志向のソングライターですね」と言われたのである。
たぶん誉め言葉だ。有り難い。有り難いがそれにつけても「名曲志向」ってなんじゃそら。ソングライターってみんなそうじゃないのか?じゃ、なんだ、お前は、お前らは曲を書こうと思ってギターを抱いた時に「よし、じゃ今日はシングルのB面にぎりぎり使えそうな佳曲を書こう」みたいなことを思うのか?そんなことでは結句、佳曲も創れんだろうし、そんなことでは絶対に俺には勝てんぞ、と思っていたのである。実際、彼が書いた曲で、俺の曲より良いものは一曲としてなかったと思うし、彼が自作の曲を歌った際に、俺が俺の曲を歌う時と同じくらい感情を込めて歌えているのかと言うとこれもまた完全にNOで、彼は実に中途半端な出来の曲を、撫でるようにギターを弾きながら、口先から声を出して歌っていた。割には人一倍、態度がデカかった。
あれから何年経ったろう。彼は今でも現役バリバリで、俺は半引退、何が何だかよくわからないことになってしまっている。
気付けば、完全に負けてしまっていた。
畜生、また眠れない。
昼間は絶えず身体がだるいか眠いかして、横になっている時間が多いんだけど、この昼間のダラダラが夜中、この時間に打ち響いて、今度は逆に全くもって眠れなくなってしまうのである。で、眠れないとどうなるのかというと、色んな人に対する罪悪感であったり、「また1日が終わってしまった」という焦りであったり、自分の今後に対する不安であったりが猛烈な人恋しさ、寂しさみたいなものを手を変え品を変え頼みもしないのにむやみやたらに連れて来やがって、連れて来やがられた俺は本当にもう何が何だかよくわからないくらいに辛い感じになってしまうのである。
ま、とりあえずアレだ。明日はなにがなんでも晴れてもらわねば困るわけです。というのも、雨の日と夕暮れ時。これが特にキツいからで、何がどういった感じにキツいのかと言うと、何て言うかその〜、非常に説明に困るがこの〜、要するに精神的になんかドォーンとくるのだ。だから雨降りの夕暮れ時なんてもんはアータ、そりゃもう最低でございましてね...。
てるてる坊主でも拵えてみよっかな。
三叉路じゃないんだから
十字路ではもっとない
「一方通行」の看板?
探さなくても
見当たらないくらい
みっともない
そんな人間
そんな場所
だから私は
私はせめてここが
客も
黒子も
演者もいない
真っ暗な劇場の舞台の上であって欲しいと願う
だから私は
私はせめて私が
客も
黒子も
演者もいない
真っ暗な劇場の舞台を照らすスポットライトであって欲しいと願う
大きな不安
小さな独楽
闇の中を踊る
私の愛するもの
梅田のTSUTAYAの裏手にあるとある焼鳥屋の三階。座敷席。
長細いテーブルがあり、上座中の上座、角の所にジョン・レノンが座っており、その正面でカート・コバーンがチキン南蛮を食べている。そして、そのカートの右斜め前、レノンの隣に北野武が座っており、その正面ではキース・リチャーズが焼鳥屋だというのにウイスキー、ジャックダニエルを勝手に持ち込んでビンのままラッパ飲みしている。そして、キースの右斜め前、北野武の隣では町田康が安価極まる麦焼酎を次から次へと注文しては、「これ、そこの者、貧しきパンク歌手に酒を持て!」とか何とか叫んでいて、その正面、末席中の末席に俺。「注がせてください。是非とも注がせてください」と言いながら「次、二次会的にカラオケなんてどうですか?」提案するタイミングを密かに見計らっている。
美味い酒。
家にいると常に眠たい。そして、自分でもびっくりするくらい睡魔との闘いに勝てない。寝てしまう。
「睡眠」というのは言い換えれば「仮死」だ。
外に出るとクワッと音を立てて目が覚める。冴える。でも、感覚というか感受性というかを覚醒させて、例えば綺麗な絵を見て「綺麗やな」と思ったり、かっこいい音楽を聴いて「かっこええな」と思ったりするためにはどうしてもアルコールが必要になってくる。アルコールを入れないとちっとも見えてこないし、聴こえてこない。
今に始まった話じゃない。長い時間をかけて、塵が積もって山となった結果の現状なんだから、これを元に戻そうとすればやっぱり同じくらい長い時間がかかると思う。わかっている。が、焦る。
中学生の時、ビートルズや、ストーンズや、ツェッペリンや、パープルや、ダムドや、ニルヴァーナを聴いてブッ飛ぶのにアルコールは必要なかった。
手相学的には、俺は結構面白い人間らしい。
生命線が極めて短かったり、金銭運がほとんど無に近かったりもするが、「ユーモア線」というのが松本人志並みにあって、あと、「不思議ちゃん線」という奇怪な線が俺の掌には人一倍深く現れているらしい。
ユーモアがあって、不思議ちゃんで、金に恵まれず、早死にする。
どないせえっちゅうねん。
投函ありがとう!
確か「変態」なる言葉の本来の意味は、爬虫類だか両生類だかが自然環境に合わせて形態を変える時のことを言うんやったよな。学校で習った覚えがある。だから、これを人間に当てはめて言う場合には「突然変異で生まれたとしか思えないまことにもって奇怪な奴」みたいな意味になるわけで、それは例えば俺とあんたが大好きなリアム・ギャラガーみたいな奴のことを言うんやろな。彼は完全に「変態」やもんな。
そう考えると俺も「変態」って呼ばれてみたい気がする。人間、若干変態ぐらいがちょうど良いかもね。若干変態ぐらいの方が見てて楽しい。でも、ま、あんまり変態が過ぎてもそれはそれでもはや奇面組的な変態で、気付けば孤立、村八分、友達一人もおらんようになって、それこそ、「大変」なことになるんやろけど。
以上、一憩の『変態論』でした。
窓の外。
電車の走る音が嬉しい。踏切のカンカンカンが嬉しい。人の話し声が嬉しい。車のエンジン音が嬉しい。
窓の内。
明石家さんまが嬉しい。
俺は「?」なんて打ってない。『昼間の思想?』って意味わかんねえよな。そんな意味不明な文、俺は絶対書かないよ。俺が打ったのは英数字の「2」で、断じて「?」じゃないよ。
畜生...。
何でもいい。とりあえず手を伸ばそう。
何がどう転んでも、死ぬよりマシだ。
落語が大好きだ。10代の頃から好きで、たぶん「生理的」に好きで、今でもTVで落語をやってると眼球が画面にへばりついて離れない。
施設で夜勤をやってる時、自分以外には誰もいない暗いフロアで誰が観るでもなくTVがついていたが、この時に落語番組が始まると本当に大変、まさに「苦悩」だった。仕事をしなきゃいけない。書き物をしなきゃいけない。入れ歯の入った容器にポリデント的なものを入れていかないといけない。コールが鳴ればすぐに駆け付けなきゃいけない。でも、でもでもでも、目の前に米朝師匠。見逃すわけにはいかない。しかしながらここは一発、気合い的なものを遺憾なく発揮してこれを潔く見逃さなきゃいけない...苦悩だった。
写真は天神橋筋商店街にある寄席小屋『繁昌亭』で、確か数年前、桂三枝師匠が中心となって立ち上げた小屋。いつか行きたい。いつか行きたい。とは思い続けているが、実際にはまだ行ったことがない憧れの場所。
もしここにあの笑福亭福笑師匠が出るようなことがあれば、俺はなにがなんでも駆け付ける。あなたはご存知?福笑師匠。アル中のヤクザみたいな風貌で、古典よりも創作を得意とする落語家さん。めちゃくちゃシュールなネタを書く人で、例えば「タイムスリップ」みたいな普通落語には持ち込まんだろう題材を躊躇なく持ち込んで創作。客の頭の中の時間の概念を崩壊させつつ、小屋全体を大爆笑の渦に巻き込むという、もの凄い人。俺は初めてこの人のこのタイムスリップネタを観たとき「松本(人志)より凄いのがおる!」と思った。
松本人志なり、町田康なり、福笑師匠なり、こういう素敵に歪んだ感性の持ち主、天才奇才が世の中にはちゃんといて、表現ということをしているという事実が俺はめちゃくちゃ嬉しい。
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
マイッタ!
これは生きにくい。こ〜れは生きにくいぞお。
あ、タバコ切れた...。
またこんな時間に目を覚ましてしまった。
『その人のことをちゃんと知らないから、その人の言葉を誤解してしまう。でも、その人のことをちゃんと知ろうと思えば言葉を避けては通れない』
涙が出てきた。
今日も明日も明後日も、人前で歌ってみようと思っている。
俺は、頑張っている人に心を込めて「頑張れ!」と一言、声をかけるということをちっとも悪いこと、稚拙なことだとは思ってません。それは、物凄く感謝している人に対して心を込めて「ありがとう」の一言のみを贈るということに関しても同じように考えています。
ありがとう!
吉川英治の著した「三国志」に、「善性」「悪性」っていう言葉が出てくる。
これは人間の根の部分に関する言葉で、「基本的に善い人間」なのか「基本的に悪い人間」なのかといったことだ。
今日、友人の親父さんが亡くなったという知らせを受けた。俺は何度かその親父さんと接したことがあるが、俺がその親父さんに関して覚えていることと言えば、極度の酒飲みで、神経のか細い「善性」な人だったということだけだ。
善性な人が死ぬ。善性にも関わらず死ぬ。そこに酒が絡んでいる。なぜ酒なのか、俺には解らないでもない。
あの親父さんがそんなに遠くない未来に亡くなることはわかっていた。わかっていたが物凄くショックだ。
喪に服す。
今日は水曜日。ということは明日は木曜日。ロト6の抽選日。
宝くじ売場で、頭を掻き掻きしながら6つの数字を考えてるんであろうお爺さんがいた。俺にはそのお爺さん、悩み過ぎて燃え過ぎて、頭から湯気が立っているように見えた。
心の中で抱きしめた。
引き続き天六商店街。
前方から明るい表情を浮かべた中年の女の人の押す車椅子に乗って老婆がやってきた。
実に面倒臭そうな顔をしたその老婆はアームレストに肘を乗せ、頬杖をついていた。
「とっととくたばりやがれ!」と思った。
天六のとある古本屋に立ち寄ったところ『イライラに打ち克つ法』という本に目が止まったので手に取ってパラパラとページをめくってみたら「第〇章 我慢するということを覚えるチャンスだと捉える」とあったのでイライラした。
斜呉箱への投函、ありがとう!心から感謝します。
実に興味深い文章です。「本質」か。
結論から言うと俺は「本質」とか、それこそ「真理」みたいなものは、知識ある大人が安易に手を出したらヤバいことになるものだと思っています。ドラッグみたいにズブってしまう。だから俺はあえて極力考えないようにしています。なので、俺には例えばそれが歳をとるごとに見えてくるものなのか、はたまた歳をとるごとに見えなくなっていくものなのか?といったことすらわかっておりません。
昔、かのジョン・レノンが「真理」を知る為にインドに行きました。で、マハリシという僧侶に教えを乞いました。が、マハリシはレノンやその他のスター目当てに付いてきた女の子たちに手を出して、早い話がセックスをして、レノンは「なんだこいつは。ただのセクハラ爺じゃねえか」と幻滅して帰国後、「神」というものを深く深く考えた末、ずばり「神」という曲を拵えて、その曲の中で「神みたいなもんはおらん!」と歌いましたが、じゃ、この「神みたいなもんはおらん!」という考え方が本質なのか、真理なのかというとそれはそれでまた違うような気がして...ね、ズブってるでしょ?
ただ俺は、例えば、小さな子供が空を見上げてとある雲を指さして「ヒコーキ!」って言ったり、チューリップがいくつか咲いている花壇の所へ走って行って、青いチューリップを指差して満面の笑みで「赤!」と言ったり、百均に足を運んだ際に絵の具も持ってないのにあの昔からある絵の具用の黄色いバケツをむやみやたらに欲しがったりするのを見ては「こいつらの方がずっと本質とか真理とかを知ってるのかもなあ」などと思ったりして、さらに、願わくはこっちが、この子供の心を突き動かしているものの方が「本質」であって欲しいなあ、「真理」であって欲しいなあ、などと考えております。
一方、今年のタイガースは強い!これは立派な「真実」です。
少し考えて、一憩は「確かに」と口火を切った。「確かに今、最も優先すべき点は余の思い入れだ。雑音に耳を貸しておるような局面ではない。そして、考えてみれば我が軍に不在なのは女性である。女性の力である。先程、余の目にはアンナ将軍に後光が差しておるように見えたが、あれは思うに神の声である。「汝、女を信じよ」という神の声である。ソニア将軍、余はそなたを信じてみようと思う。八頭目の虎となってあの黄色い布の病んだ賊どもを蹴散らしてまいれ」
一憩はそう言って勢いよく立ち上がると、木元辰乃丞の隣で将校どもの中に不審な動きをする者はいないか剣の柄に手を掛けて見張っていた土谷久ノ宗に合図をして、自身の剣と虎の印を持ってこさせた。そして、階段を降り、ソニア将軍に剣と虎の印を授与すると、ソニア将軍は何も言わず二歩後退し、深く頭を下げてのち反転、先程アンナ将軍が立っていたあたりまでゆっくりと歩いていき、そこでこの会議の間中ずっと立ったまま寝ていた秋元康というだらしなく太った文官を一刀両断に切り捨ててから、同志の者4名を引き連れて宮殿を後にした。
「打てる手は全て打った。後の成り行きは神のみぞ知る。解散!」一憩の号令一下、将校どもはモゴモゴモゴモゴ口々に何か言いながら散っていったが、一憩はその虫の如き腰抜け将校どもの背に心中、「お前らもそのうち絶対ぶち殺すからな」なる言葉を浴びせかけていた。
〈終〉
「我が君。私をお忘れか!いや、いやいやいや、断じて忘れたとは言わせまい。我が君。我が君がこの国家存亡の危機に際して、今再び強く求めておるのはまさに私であり、私の声でありましょう。ここで私でしょう。今、私を虎に任命せずして誰を任命するのですか?確かに私の、エコーベリーの知名度は他の虎の方々と比べると圧倒的に低い。それは認めます。でも問題は、この緊急事態において最も優先すべき点は、我が君、あなたの思い入れでしょう。あなたの思い入れこそがあなたとあなたの国を救うのです。さあ、お渡しください。我が君のお手元にあと三つある虎の印。そのうちの一つを私に、エコーベリーにください!」インド人とイギリス人の間に生まれた歌姫、ソニアは涙ながらに叫んだ。
「な、なんと無礼な!わ、我が君に対してなんたる口のききかた!私がそなたを成敗してくれん!」宮中後方からヒステリックな声。浜崎あゆみという不細工な武官が薙刀を振りかざし、ソニア将軍の元へ走り込んで来たが、あと一歩というところでどこからともなく「黙れスパイ!不細工のくせに!」という声がするや後頭部に矢が突き刺さり、浜崎あゆみはどおっと前方へ勢いよく倒れ込んだ。見るからに即死。一憩以下、その場に居合わせた将校どもが宮中最後方、門の所に目をやると、外界の光に照らされて後光が差したようになっている弓矢を手にした土屋アンナ将軍が立っていた。アンナ将軍はゆっくり弓矢を降ろすと「御免」と囁くように言って宮外に去っていった。
〈続く〉
この天下にはたまに嵐が吹き荒れる。何の巡り合わせか、歴史上のとある「点」において、才ある者が突如として大量発生、巻き起こす嵐。一憩が意気揚々旗揚げして以降にも二度、そんな嵐が吹き荒れて、一憩含め志に燃える全ての者が誰を自軍に迎え入れるかということに非常に頭を悩ませた。
一憩が体験した一度目の嵐を民衆は『グランジ』と呼んだ。サーストン・ムーア率いるソニック・ユース、エディ・ヴェダー率いるパール・ジャムなど、後世に名を残すであろう才能が次々に出現して、天下を席巻した。そんな中、一憩が熟考の末に自軍に招き入れたのが他でもない、つい先程、七頭目の虎に任命され、意気揚々出撃したカート将軍、ニルヴァーナであって、カート将軍こそは当時、『グランジ』の渦中にあって「最強」と謳われた猛者であったが、「素行が...」との判断でどこからも拾ってもらえなかったものを一憩が三顧の礼をもって丁重に迎え入れたのであった。
次に吹き荒れた一憩にとって二度目の嵐を民衆は『ブリット・ポップ』と呼んだ。この嵐、台風の「目」はなんといっても今現在、一憩に仕えて「レディヘ」なる賊と一進一退の攻防を展開しているオアシスであった。そして、この『ブリット・ポップ』を語る際にはオアシスと並び称された才能、デーモン・アルバーン率いるブラーの存在を無視できないが、一憩は、無視こそしなかったが、自軍に迎え入れるというようなことは一切しなかった。何故か。それは一憩の目が他に向いていたからに他ならず、その一憩の目線の先にあって、一憩が是非とも自軍に招き入れたいと考えていた人物こそが、この『ブリット・ポップ』なる嵐において「歌姫」と謳われていたソニア・マダン率いるエコーベリーだったのである。
〈続く〉
一憩は暫く考え込んでいたが、やがてゆっくり開眼すると傍らにいた木元辰乃丞という文官に「余の剣と、虎の印をこれへ」と言い、持ってこさせた。そして紫色の絨毯に覆われた階段をゆっくり降りるとカート将軍の前へ行き、虎の印を手渡して「行け。行ってノーマン将軍を助けよ」と言った。そして、カート将軍の左斜め後ろにいた稲葉浩志という武官の首を自らの剣で叩き切って階段右横の「燃えないゴミ」と書かれた箱に投げ棄て、背中越し、カート将軍に「負けは許さん」と言った。
「あ、有り難き幸せ!」カート将軍は目を輝かせて言うと、付き従う二人の大男に「行くぞ!」と一喝、喜び勇んで宮外へと飛び出していった。
「カート将軍なら無問題」「さすが我が君、器がデカイ!」「『仕事が速い!』みたいに言うなや、あぱぱぱぱ」我が身の安全を確信した将校どものざわめきに呆れ果てている一憩の耳に突如、予想だにしない女性の声が飛び込んできた。
「我が君。私をお忘れか!」
「おう、誰かと思えば」
名乗り出たのは他でもない。エコーベリー率いるソニア・マダン将軍、その人であった。
〈続く〉
カート将軍とニルヴァーナ。
彼らは一憩旗揚げ時からの忠臣であり、その歴史と功績はビートルズ、ストーンズに次ぐものであったが、素行にやや問題があり、問題発言、ネガティブな思想、自虐的行為の類が絶えず、時に目を覆うばかりであったので、一憩の虎選考からいつも洩れてしまっていた。が、その実力、勇猛果敢な働きっぷりはすでに天下に轟いていたし、一憩もそれは痛いほどに認めているところであった。が、やはり素行が...なのであった。
「我が君。今、この国家存亡の局面においてもなお、素行素行などと言っておるのは極めて稚拙。拙者の、そして今まで拙者に付き従い、共に我が君の為、命を省みず戦って参りましたこの両名の自尊心というものを我が君、あなたはどう考えておられるのか。それとも、そもそも我々武人には自尊心など持ち得無いであろうとのお考えか!」カート将軍は溜まりに溜まった不満を爆発させるかのように訴えた。
「これ!少し言葉が過ぎるぞ!」カート将軍の背後にいた小田和正という文官が口を挟んだが、刹那、和正の背後にいたイギーポップ将軍が「御免!」と一喝、これを切り捨て、宮外へと引き摺りだした。
〈続く〉
〈俺の中で大規模な反乱が勃発している。俺の大嫌いな色―黄色の布を頭に巻いた賊が昼夜を問わず暴れまくり、俺領土全域で非道の限りを尽くしている〉
「鎮圧してくれ!」中央から伝令がとんで、六頭の虎が各戦線に出陣。数日後、全ての戦線から「苦戦を強いられている」との報告が届いた。中でもティーンエイジ・ファンクラブは苦戦しておるらしく、ティーンエイジ率いるノーマン将軍からは援軍を乞う密使が到着した。文にはこうあった。「我が軍、ぎりぎりにて候。直ちに援軍、願わくは新たな虎の任命とその出陣を要請す」
一憩はただちにすべての武官文官を宮中に召集し、会議を催した。
居並ぶ武官文官たちに事態の深刻さを物語ると、一憩は突如立ち上がって叫んだ。「誰か、この国家存亡の危機に際してその勇を天下に示さんと欲する者はおらんか!」
「お前行けや」「こういう時はお前ちゃうんか」ざわめく将校どもの中から「オウ!」と声がして、身の丈2Mはあるかと思われる大男二人を従えた一見浮浪者、よく見ると男前、小さな男が一憩の眼下に現れた。
「おう、誰かと思えば」
名乗り出たのは他でもない。ニルヴァーナ率いるカート・コバーン将軍、その人であった。
〈続く〉
「業務」はできた。
「人間」ができなかった。
怖かった。
誰にも気付かれないように逃げまわっていた。
苛々した。
たまに隠し切れなかった。
高速回転。
ベルトコンベアの上を逆走していた。
少しでも気を抜くと弾き飛ばされる。
弾き飛ばされて鐘一つ。
「天職であれ」人知れず願っていた。
天職ではなかった。
暗転。
本屋さんは、雨、大嫌いなんやろうなと思う。「うわ、雨や..」みたいなことを思うんやろうなと思う。
酒屋さんは酒屋さんで、言うに言えぬ苦悩があるんやろうな、と思う。売らなアカン。生活がかかってる。商売は商売。でも、売りたくねえな..って思う時があるような気がする。
雨。
電車の中で、マクドを貪り食っている若い馬鹿野郎がいる。
馬鹿だ。馬鹿野郎だ。でも、目は俺なんかよりずっとイキイキしている。
きっと彼は、そして彼の隣に座っている彼女は、永遠に死なない。
馬鹿だから。
町田康に会いたい。
最近毎日。「ほぼ」じゃない。本当に毎日欠かさず、天六商店街をぶらついている。
何を探してるんだかさっぱりわからん。わからんが、何かを探している、「探さねば」と思っている自分がいて、気が付くとこの商店街にいる。ここに来れば何かが見つかりそうな気がして来るけど、結局何も見つからず、フラフラになって帰途につく。そんな毎日。
何か。何でも良いから何か、創らねばなあと思う。
何か創らないと、俺は、俺という人間は、俺という人間の時間は、ただただ「無駄」だとしか思えない。
誰かを喜ばせたいなあと思う。自分の創ったもので誰かを喜ばせたいなあと思う。その顔を見て、喜びたいなあと思う。
神様に、俺担当の天使に、俺自身に、本当に申し訳ないなあと思う。
今日、天六、雨。行き交う人、皆、いつもの元気がない。
頼むからあんたらは元気でいてくれ!
と、思う。
まだこのブログ、読んでもらえてますか?是非とも教えていただきたいことがあるのです。
ここ数日、俺、柄でもなく、毎日、古本屋を渡り歩いております。というのも、とある本を探しておるからです。とはいえ、俺自身、その「とある本」が誰が書いた何というタイトルの本なのか全然わかっておりません。というのも、俺はとにかく、何が何だか訳のわからない、起承転結もクソもない、ハッピーエンドなんてクソ喰らえ、読んだ後で「?」しか残らない、にも関わらず何故か強烈に面白い!そんな本を探しておるからです。
そんな本ってありますか?そんな作家さんっていますか?町田康以外にいますか?イメージ的には、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」とか、夢野久作の「ドグラマグラ」とか、そんな感じです。もしご存知なら是非とも教えてください。
よろしくお願いします。
このタイミングかな、と思ったので置いてみることにした。
本当に何でも良い。書き込んでみてください。
締め切りは4/19(月)
期待せずに待ってます。
ストローを洗うな。
水を流し込んだところでどうせ汚れは落ちないだろうし、洗剤を流し込んだところでその洗剤が残ってもっとタチの悪い汚れと化しているような気がして気が気じゃない。
使用後は躊躇なく棄てて、新しいのを使え。それができないんだったら始めから使うな。
ストローは洗えない。
綺麗な絵、綺麗な文章、綺麗な音楽。と、「現実」との間にある大きな隔たりがわからない。我慢ならない。
同じ「人間」がやってることだとは思えないくらい、片や強烈に「美」で微力で、片や強烈に「醜」で強力だ。
うちの師匠(北野武)の映画には相変わらず、全くもって客が入らない。一方、宮崎駿の映画は毎度、映画館に行列ができている。
宮崎駿の映画の何が面白いんだかさっぱりわからない。桑田佳祐の音楽と同じくらい何が良いんだかさっぱりわからない。
でも、あれが現実だ。現実そのものだ。怪物だ。
子供の頃からマルチーズが大嫌いだ。
つい先程、「狂犬病」という言葉から「病」の一字を抜いたかのような犬、マルチーズが猛烈な勢いで吠えてきた。
阿片漬けの黒柳徹子。
心から「死ねばいいのに」と思った。
これで400本目。
今回も一応説明するが、このブログでは文章100本を1枚のレコードだと捉えて、それぞれに相当しいタイトルを付けて「パッケージング」する。従って、これで4枚目のアルバムが完成したことになる。
1st『ヴァイブル』
2nd『麦乃助の憂鬱』
3rd『V』
に、続く4枚目のアルバム。
今回ほどタイトルに困らなかったことはない。4thアルバムのタイトルはこれしかないと思っている。
『闇独楽』
闇の中で独楽が回っている。これしかない。
それでは、息継ぎなどせず、500目指して突き進みます。とにかく、吐いて吐いて吐き倒さねばどうにもならん。
ご飯を食べているという自覚がない。ただただ「何か」をしている、だけ。
「排泄」ということがわからない。我の便意がわからない。まるで「便」の方に意思があるかのように出るもんは出る。
自分が誰だかわからない。「誰」だったらまだ良い。自分が「何」なのかさえ、きっと、わかっていない。
そんな「の」を「生きている」と言えるのかどうか疑問。
放置されたら、確実に死ぬ。
そんな「の」を周りが寄ってたかって生かそう生かそうとしていて、そこに金が発生していて、俺はその金を家に持ち帰り続けた。
正しい、正しくないの問題じゃない。ただただ、わからない。
わからない。
KYになりたい。
今日、一憩は久々にライブをやった。
音太小屋で、飛び入りで2曲だけやった。
ライブの後、「私、ハングリーウーマン!」って言いながら笑っているオバサンがいた。
化粧の濃い女と、胸を張り過ぎている男が仲睦まじく腕を絡めて歩いている。
「あの〜すいません。それっていつまでもちそうですかね?」尋ねてみたい。
浮気は匂いでバレることが多いらしいし、酒を断たねばならん人が外でこっそり飲んできたかどうかを調べる際にもやはりこの「匂い」が一番の証拠になるんだから、匂いというのは本当に恐ろしいものだなと思う。
そういえば昔、中3の頃、同じクラスに俺に迫る勢いでビートルズを好きな奴がいて、放課後、俺はよく彼の家に遊びに行っていたのだが、彼には妙なこだわりがあった。「俺はビートルズのCDは輸入盤しか買わない」と言うのである。輸入盤には対訳も、ライナーも、帯も付いていない。その代わり国内盤に比べるとちょっと安い。ってことは彼は貧乏なのか?というと全然そんなことはない。俺は築何年だか判然としない長屋に住んでいたが、彼は建って間もない、木の匂いのする、綺麗な一軒家に住んでいて、レーザーディスクも持っていた。
じゃ、何故あえて輸入盤なのか?考えても考えてもわからないので、単刀直入に聞いてみた。「なんで?」彼は答えた。「だって封開けた瞬間、イギリスの匂いするやん」
「負けた」と思った。
〈1〉地面に幅10cmの線を引いて、この上を歩けと言われた場合にはこれ余裕なんだけど、この線がもし断崖絶壁に掛けられた橋だとしたら、それでもあなたは余裕だと言えるだろうか。
〈2〉同点で迎えた9回裏。ツーアウト満塁のピンチ。カウントはノーストライク、スリーボール。バッターに次の球を打つ気がないことは彼がバッターボックスをはみ出る勢いでホームベースから遠ざかったことからも知れるが、で、あなたはこの状況下、ちゃんとキャッチャーが要求しているド真ん中にボールを投げられると断言できるだろうか。
あなたはあなたの部下にプレッシャーばかり与えていませんか?酷なシチュエーションを用意しては「さあ、やってみろ」とばかりに腕組みをして、部下を試してばかりいませんか?そんなやり方じゃあなたの部下は「できるものもできない...」と呟いては酒を飲んでばかりいるアル中になってしまいますよ。
もし彼が退職願いを出したら、その時はあなた、本当に用心してくださいね。刺されますよ。
暗闇に足音。
「結構長いこと歩いてるけど、俺は本当に出口...っていうか、来た方向を背にして真っ直ぐ歩いて来れてるんだろか。途中、何度かリュックを枕代わりにして寝たけど、もし寝て起きるたびに身体の向きが変わってたとしたら、俺は永遠にここから出られないじゃないか。ってあれ?自信がなくなってきたぞ。確かに出口はこっちのはずなんだけど...あれ?違う?違うか?違うかもしれないな。ど、どうしよう...。ま、百歩譲って、永遠にここから出られないってパターンならまだいい。笑えなくもないし、笑えなくもないんだから許せなくもないような気がしないでもない。自分自身をね。ただ、最悪なのはもうひとつのパターン。光らしきものが見えて、見えた気がして、「出口だあ!」と叫んで飛び出したら振り出しに戻ってた...って場合。これは最悪だ。本当に最悪だ。笑うに笑えないし、笑うに笑えないんだから許すに許せないような気がしないでもない。自分自身をね。って、ところでそこの君、この「自分自身をね」ってフレーズ、かなり面白いと思わない?繰り返せば繰り返すほどに面白いよね。相当面白いよ。え?やっぱり君もそう思う?これがいわゆる「鉄板」っちゅうやっちゃね。じゃ、今後はジャンジャン売り出していかんとイカンねえ!自分自身をね...」
暗闇に足音。そして涙。
太陽の如くに燦々として全てを優しく包み込んでやれるような天才ではもちろんないし、自分に降りかかってくるマイナスな言葉やその他事柄を肩の力を抜いて上手く右から左へ受け流す技術があるわけでもないし、懍として「かかってこい」的に振る舞う為には必要不可欠な親心的なものを持ちあわせているわけでもない。
包めず、受け流せず、立ち向かえず。そんな人間がいくら仕事とは言え、あの「混沌の群れ」相手に笑顔でいられるはずがない。
で、俺はどうすりゃ良いんだろう。
子供の頃によく「『これだけは誰にも負けない!』みたいなものを見つけなさい」って言われた。で、俺は見つけた。が、それがこれっぽっちも金にならない。
これしかできないし、これでしか勝てる気がしないのに、俺はこれ以外のことを負けるのを承知の上でやって、負けを認め続けるということを生業として生きていかねばならんのか?
地獄だ。
ニルヴァーナのアルバムは日本盤を買う必要がない。対訳なんていらないだろう。
カートは「助けてくれ!」としか言ってないんだから。
「社員教育」って面白い。
いい歳をした大人が、いい歳をしてまた教育されている。
教育しないとみんな、てんでバラバラに、好き勝手に動くという読みからだろう。
なにが大人だ。
ここに文章を寄せるたび、ほんの少しだけ明日が遠退いたような気がして、ほんの少しだけ気が楽になる。とはいえ効き目はほんの一瞬。それは煙草一本分の安堵感に似ていて、そういった意味で俺は今、完全に「チェーンスモーカー」と化してしまっている。ここに文章を寄せていないと落ち着かない。本当に落ち着かない。愛煙家の方々には漏れなくわかってもらえるはずのこの感覚。
明日を少しでも遠ざけたいというこの気持ちは同時に、頭の中に言葉の異常増殖という状況をも生んでしまっていて、ここ数日間、絶えず頭が重い。
吐いても吐いても吐ききれない言葉。文、文、文。頭の中を蠢いたり、頭の周りを飛び交ったりしている。
俺の言葉は空気に触れると駄目になる。
頭の中の言葉を一切空気に触れさせることなく、頭の中にある状態のまま誰かに伝えようとした場合に、俺には音楽や絵や文章という手段しか無いように思えて、紆余曲折、今の俺がある。
あくまで自分の言葉を自分の納得のいく形で伝える為の手段。だからある意味、俺にとって「芸術」なるものはちっとも崇高なもんじゃない。
もし崇高だと思っていたら、俺はもっと芸術を勉強しただろうし、もっと「芸術」という言葉自体を口にする人間になっていたと思う。
コメントありがとうございます。
「アリバイ会社」って何ですか?ただのペンネームですか?
失礼ながら読者の捉え方によっては俺の素行が疑われかねないので、簡単な自己紹介をよろしくお願いします。
「昔は良かった」的発言ってそんなにダメなことなんだろうか。逆に、「今が一番」的発言は、それがたとえ自分自身に対する嘘無しには口にできないものだったとしても、やっぱり立派なことなんだろうか。
自分自身に嘘をついている人間の言葉なんて、根の汚染されきった木がつける葉や実みたいなもんだろう。
あ、また一羽、鳥が落ちてきた。
どいつもこいつも、びっくりするくらい自分の欲求に忠実だ。俺の目にはとるに足らない、はっきり言ってどうでもいい、些細極まることでも、そこに欲求が絡んでいたら、意地でもそれを達成させようとするし、少しでもうまくいかないと考えるより先に怒りに訴えようとする。
面倒臭い。
「言うことを聞け」と言われて聞き容れたことは数限りなくあるが、「言うこと聞いて」と言って聞き容れてもらった記憶はほとんど、無い。にも関わらず、俺のことをわがままだと言う人がいる。俺がわがままだったらあんたらはいったい何なのか。いったい何とお呼びすれば良いのか。
万歩計みたいな感じで、「万言計」ってのがあればなあと思う。一日のうちにどのくらい喋ったのかが数字で表示される小さな機械。きっと俺が、俺のことをわがままだと言う人の4分の1も喋っていないということがわかってもらえると思う。
俺のことをわがままだと言う。そういうのを「詭弁」と言う。
服というのは人間の身体の形に合わせて作ってある。サイズやデザインに違いはあれど、基本的な形は皆同じ。でも、人の心の形は限りなく多種多様。「心に着る服」なるものがあるとして、それがサイズ、デザイン的にヴァリエーションに富み過ぎるということはないし、そこに「基本形」なる考え方を持ち込むとものの5秒で無理が生じてくるような気がする。
芸術というのは心が着る服なのかも知れない。
例えば音楽。例えば『ノイズ』。演奏してる本人にも、どこがデコで、どこがボコで、どこにどのくらいの穴が開いていて、何色と何色の組み合わせで、どの部分が直線で、どの部分が曲線なのか?といったことが定かでない。そんな形の服。世の中にはそんな形の服しかジャストフィットしない心というのもあるんだろうし、それはそれで面白いとは思うけど、そんな心と、そんな心を覆っている基本的な形の服を着ている肉体と、そんな両方を引き摺るようにして呼吸している人間というのは相当に生きづらいだろうなとも思う。
またこんな時間に目を覚ましてしまった。
真夜中の静寂は「焦り」を喚起する。
中3の時、とある友人が俺のとある間違いを指摘してくれた。あの時、彼が指摘してくれてなかったらと思うとゾッとする。
中田「カオス」だと思っていた。
つい先程、阿仁真里が買い物から戻ってきた。「何買ってきたん?」と尋ねたら「ビスコ!」と答えて玄関の所でちょっとつまづいていた。
で、「何も考えたくない」と一日中考えているような人間は、いったい何をして過ごせば良いんだろう。
音楽を聴いたところでどうにもならないし、それはギターを弾いたところで同じこと。
大阪。外は晴天で、そこら中で桜が咲いていて、だらだらだらだら時間が流れている。
今年の桜はちょっと汚れている。
普通、女の人は自分の中の男性性を外界へ引きずり出そうとはしないし、男の人も自分の中の女性性を外界へ引きずり出そうとはしない。っていうか、自分の中のそんな存在に気付きもしない。
私はツイていた。私にとっての「実体」である一憩は、私を極限まで引き出そう引き出そうとしてくれている。
貴方は貴方の中の彼女に気付いてる?貴女は貴女の中の彼に気付いてる?
私は、私の実体である和田一憩という伊丹出身の、情けない、アル中の、ロック馬鹿を愛し始めている。
今日、一憩は私を連れて大阪に戻る。職場復帰はまだ少し先の話だけれど、とにかく、大阪に戻る。
一憩は不安の塊で志向が定まらず、私はただただ「まだまだ時間はあるよ」とか、「大丈夫。貴方は確実にレノンに似てる!」とか、何でも良いから思い付く限りの励ましの言葉を投げ掛けているが、私自身は大阪に戻ることに何の怖さも感じてない。
読者の皆さんもご存知の通り、私は33年間、一憩の中の女性性として存在し続けてきた。でも、考えようによっては私は、一憩の中のポジティブな考え方とか姿勢とかの権化でもあるのかな、と今ふと思った。だって、彼の全体像から私を引くと、「ネガティブ」の一言しか残らないんだから。
昨日、遠路、長い時間電車に揺られて、剣吾くんが会いに来てくれた。アンプを台車に乗せ、ベースを背負って。
昨日、本当なら一憩はライブをやっているはずだった。そしてそのライブには中盤から剣吾くんも登場する予定だった。久しぶりに二人でスタジオに入って、本格的に練習をしだした矢先の中止だった。
周りを田んぼに囲まれた、音を気にしなくて済む家の中で、お客さんは私たちの両親と一頭の犬だけだったけれど、一憩と剣吾くんは「予定通り」ライブをやった。そして「息、ピッタリやな」とお客さんを驚かせた。
今日も「音出そう」と剣吾くんは言ったが、一憩は「昨日出し尽くしたよ」と言った。
晴天。二人は裏庭のベンチに腰掛けて色んな話をした。中でも昔、一緒にバンドをしていた時の話はめちゃくちゃ盛り上がっていた。「お互い頭丸めてゴミみたいなパンクバンドやる?」とか言って笑ってた。
夕方、剣吾くんは帰って行った。一憩は改札まで見送って「ありがとう」とだけ言った。来てくれたことが嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいで、いっぱい過ぎて、「ありがとう」が精一杯だった。
駅からの帰り道、一憩は私に「剣吾くんになんかめちゃくちゃええことあったらええな」と言った。私は「ホンマにね」と答えた。
怒りや苛立ちで人を変えられると思っている人間にとって、自分の思い通りにならず、自堕落的に、勝手に崩壊していく弱い人間の存在は「屈辱」そのものだろうと思う。
大丈夫!言われなくてもわかっている。俺という人間は屈辱だ。俺自身にとっても屈辱だし、それ以上に、あなたにとっての『屈辱』だ。
俺はあなたの屈辱。んなことはわかっている。あなたが優しい人間のフリをするのがめちゃくちゃ下手だというのと同じくらいわかっている。
元々はとても夢のある話でしょ?「認めてもらいたい」っていう気持ち。それはある特定の誰かの為を思えばこその気持ちだったりするし、それを笑顔で「生き甲斐」って呼んで、毎晩のように本当の意味で「美味しい」お酒に酔いしれることのできてる幸せな人だって世の中には大勢いると思う。でも、この「認めてもらいたい」って気持ちが強くなり過ぎて、「認めてもらわないと生きていけない」下手をすると「認めてもらわないと『生かしてもらえない』」みたいな強迫観念になって、気付けば自分自身の意思なんてそっちのけ、見て見ぬフリしたり放り投げたりすることに慣れて、人の意思ばかり尊重して、人の表情ばかり気になって、毎日毎日ビクビクビクビク、何をやっても楽しくなくて、明日があって明後日があるということがただただ苦痛になって、明日を遠ざけられるような気がして飲むお酒の味は...これっぽっちも美味しいとは思えない。思えないけれど、かと言ってやめる訳にもいかない...っていう人もたくさんいると思う。
明日が不安だったり、恐怖だったりっていうのが例えば一年も続けば、大抵の人間は何かしらおかしくなると思う。
もう今以上には認めてもらえそうにない。もっともっと認めてもらうためにはどうすればいいのか。わからないし、もう動けない。自分にはこれが限界だ。情けない。色んなことが嫌だ。色んなことが本当は自分は不本意なのかもしれない。今こそ自分の意思を思い出さなきゃ。え〜っと、自分はどんな生き方がしたかったんだっけ?自分はどんなことに胸踊らせるんだっけ?自分はどんな笑い方をするんだっけ?え〜っと自分は...思い出せない。
私はそんな人に「お酒をやめなさい」なんて言えない。っていうか何も言えない。ただ、なんとなく、私だったら、逆にめちゃくちゃ高いお酒を買ってきて、なみなみ注いであげて、「時間はたっぷりあるよ」とだけ言ってあげると思う。
さかえさん、一憩を心配してくれてありがとう。我が事のように嬉しいです。ま、我が事なんですけどね。
昨日から彼は私を連れて、彼の実家に来ています。そして、とにかく、ず〜っと寝ています。でも、入眠はしてなくて、ご飯の時以外はとりあえずず〜っと布団の上で、「ああでもないこうでもない」という言葉を体現しているかのようにゴロゴロゴロゴロしています。とてもイライラしているようです。私は彼の枕元に体育座りをして、彼を見つめながらず〜っと「ゴロゴロゴロゴロ..」と呟いていましたが、「それがイライラすんねん!」と怒鳴られてしまいました。ま、とにかく、しっかり見張っときます。
ところで、昨日はこの『イッケイノウタ』の一周年記念日でした。彼(と私)はこの一年間、365日の間にジャスト365本の文章をここに寄せました。これはなかなかに凄い記録だと思います。さかえさんはじめ読者の皆さんにはここらで一度、私たちの過去の作品群を振り返っていただいて、彼、和田一憩と、私、阿仁真里がここで何を伝えたかったのかということを楽しみながら推察していただけたら嬉しいなと思っています。
この一年間、彼にとっても、私にとっても、このブログの存在はまさに「救い」でした。そしてこれからもそんな存在であり続けるのかな、なんてことを思ったりもしますが、それはそれで問題かな、とも思っています。
ま、とにかく、一年間やりきりました。生き抜きました。万歳!今から寝ている一憩の口に無闇に甘いケーキでもぶち込んでやります!
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