1.散髪をした。
2.煙草を「わかば」から「ゴールデン バット」に変えた(¥190→¥140)。
3.俺の音楽的創造力と探求心を支える心の最重要バンドを、六虎大将軍から五虎大将軍に戻した(ウェラー降格)。
4.職場では紫色以外の服は着ないことにした。
本日以降、この『私的改革』は生活の好不調を問わず必要に応じて随時、適時行ない、その都度ここに発表する事とする。
2010年1月アーカイブ
本当にありがとう。心から感謝します。
ある意味、「飛躍」とか「成長」とかは置いといて、どちらかと言うとそれこそ『復活』、本来あるべき姿に戻るべく、我武者羅に頑張ります!
ありがとう。
ロックンローーーーーール!!!
あと7分。
目の前に俺にとって何の愛着も無い、一度も思い入れを持ったことの無い無機質な数字が二つ並んでいる。
「燦々」であって欲しい。「散々」は勘弁して欲しい。
終わったことは素直に嬉しい。でも、始まったことを素直に喜べるかというとそうでもない。
とりあえず喜ぼう。でも、不安でいっぱいだ。
日付が変わったら、叫びます。世界で一番好きな言葉を叫びます。
あと30分。
今日は今日で感慨深い。
幾度となくエンドレスかと思われた悪夢の如き32歳、最後の日だ。やっと終わる。
かと言って、明日から全てが新しくなるわけじゃないし、抱え込んだ諸問題が解決するわけじゃない。正直、何一つ解決しない。でも「32」という邪悪な数字から解放されるというだけでも万々歳だ。そのくらい、32回目の365日はヘビーだった。
今日1日、自分の「32」をしっかり噛みしめようと思う。そして今夜はいかに眠くても、日付が変わる瞬間まで起きておいて、日付が変わると同時にビールの栓をあけようと思う。
「楽しい」が難しい。
時間は金で買える。
金は時間で買える。
しかしながら時間も金も極めて高価。
時間を買ったら、翌日から一円単位の節約を余儀なくされるし、金を買ったら、翌日から時間に追われる日々が始まる。
「逃げ道はないものか」苦悩の挙げ句、酒を買う。と、時間を買う金がないことに気付く。
程なくして、金もなければ時間もない自分がやってきてドアをノックする。
「入ってますぅ」と答えるがダダすべる。
翌日、やむを得ず「自分」を質屋に持っていく。
「この状態じゃ、これで精一杯ですなあ。修理代はウチで持つんですし」と言われて、背に腹はかえられず不可解極まる安値で売る。
涙が出る。
涙が一銭にもならないことに気付くのにありえないくらい時間がかかる。
ここでまた無駄に時間を売ってしまっている自分がやってきてドアをノックする。
「あのぅ。先ほども申し上げたように入ってますぅ」と答えるがダダすべりの上塗りに終わる。
夢が遠退いていく。
コメントありがとうございます。心から感謝します。
結論から申し上げると、まつきあゆむさんのやり方、全然アリだと思います。昨今のライブハウスやレコード会社の有り様を思えば、今後は彼の他にも彼と同じようなやり方で勝負するアーティストが山のように出てくると思うし、それは音楽の質を最優先で考えた場合にはめちゃくちゃ良いことだと思ってます。ただ、現実的にはそのやり方で食っていくというのはかなり難しいことだと思います。「寄付」という形で軍資金を募るというのはよっぽど慎重にいかないと後々ややこしいことになるのは目に見えてるし、何より、持続することが困難かと思います。一方、レコード会社を通さずに作品を手売りするというやり方には全くもって異論はありません。自分の作品の質に自信があるのなら、それで突き進めば良いと思います。
知名度の伴わないアーティストにとって最大の問題はやっぱり「金と時間」だと思います。そして、そのどちらか片方だけではなく、両方を持続させられるかどうかだと思います。
何かと一瞬だけならできます。ただ続けていくということが難しいし、続けていけないのなら動いても無駄だという考え方があって、今の俺の隠居生活があります。
でも、性懲りなく、絶えず、復活への道筋は模索しております。
不純物を過度に吸収することによって黒く重く肥大。ネバネバした「雲のような」と形容するには汚な過ぎる不可解な物体が今、胸中を埋めつくしている。「気が重い」とはこのこと。不快感の塊。
今、ギターを抱いて曲を書いたら、めちゃくちゃ綺麗なメロディにめちゃくちゃ優しい詞が乗ると思う。
ちょっと前まで俺は20代の若造だった。そりゃ、まあ、酒は飲んだ。飲んだくれだったと言っても過言じゃない。でも、30を少し越えた今、現実が生き地獄の一歩手前みたいなことになっているとして、それが過去の、20代の自分の生き方が生んだ「罰」だとか「しわ寄せ」だとか言われても今一つ納得がいかない。
俺の20代はどうだったのか。冒頭でも述べたように、確かに飲んだくれだった。でも、ギャンブルも女遊びも一切しなかったし、分不相応に高価な服を着てイキるということもなかった。基本的に食えりゃなんでもいいし、飲めりゃなんでもいいし、着れりゃなんでもいい。そんな、分をわきまえたスタンスで生きていた。
ただ音楽が死ぬほど好きで、音楽相手に必死こいて格闘してただけだ。
だから、今の生活が最低なものだとしても、俺はこれを「罰」だとも「しわ寄せ」だとも思わない。後の幸せを生むための長い陣痛とでも解釈して、無理矢理にでも前向きに、葛藤の日々を乗り越えていくだけだ。
いろんなことが確かに自分のせいだ。でもそこまで自分のせいじゃない。にも関わらず不本意にも深々と頭を下げて謝罪して、目の前の苦境をとりあえずやり過ごす、なんてことはしたくない。
〈解説〉
300本に到達した。
このブログでは、文章100本でひとくくり。一つの作品、一枚のレコードだと捉えるので、3rdアルバムが完成したことになる。
1〜100本目(3/31〜7/21)の1st『ヴァイブル』
101〜200本目(7/22〜11/11)の2nd『麦乃助の憂鬱』
そして、201〜300本目(11/12〜1/24)の3rdアルバムが今日ここに完成。
タイトルは、11/12から今日までの全文章を再読の上熟考の結果、『V』に決定した。なぜ『V』なのか?その由来についてはあえて説明しませんが、とにかく、字そのものの形状にピンときたとだけ言っておきます。
〈評価〉
3rd『V』は過去の2枚と比べると、読む人によって好き嫌いがはっきり分かれるような気がする。俺自身、今はあまり気に入ってない。でも「今は」であって、将来的には物凄く愛着の湧くアルバムなのかもしれない。正直、俺自身よくわからない、実に混沌とした、ある意味サイケデリックなアルバムです。
では、4枚目の制作に取り掛かります。
常日頃、このブログを通して愛読者の皆さんになんとなくでも良いからわかってもらえたら嬉しいなと思っているのは、音楽にしろ、絵にしろ、文章にしろ、表現するということが俺にとっては本当に「必要」な事で、生きていく上で必要不可欠な事で、「趣味」とか、ましてや「暇潰し」なんかじゃないんだということだ。「ライフワーク」という言葉だって俺には全然ピンと来ない。
俺という人間のその辺の救い難い病的な感じを理解してくれている、あるいは理解しようとしてくれている、あるいは理解しようとすることを楽しんでくれている愛読者の皆さんがいて、俺はそんな皆さんの存在に心から感謝して、「感謝の印」的に嘘の無い文章を日々書き連ねていく。そんな素敵な関係、循環の上にこのブログが成り立つとしたら、実はもう成り立っているとしたら、これは本当に素晴らしい、筆舌し難く嬉しいことだと思う。
残念ながら「ブログ」という言葉自体に若干のお手軽感というか、使い捨て感というか、軽薄な感じがどうしてもつきまとってしまうが、こと俺と皆さんのこの『場所』に関しては、お手軽感や使い捨て感の一切無い、良い意味で重い、それこそ本当に「作品」であって欲しいと思っている。
常日頃、書き手である俺自身のレベル。読み手である皆さんのレベル。そして、書き手である俺と読み手である皆さんとの関係性のレベルみたいな物も含めて、本当に「凄い」ブログを目指しています。本気です。
情緒感の無い人間には何をどう喋っても無駄だ。
今日が窮屈で、明日が不安なら、想像力には事欠かない。
捨てたり売ったりして、自分の持ち物が無くなっていくというのは心地の良いことだ。
何かしら「持つ」と、維持する為に金がかかるし、神経も使う。それはなにも家や車やバイクといった大きな物に限った話じゃない。「持つ」という行為には必ず、それを「維持する」という労が付いてくる。
人間、特に男は、本当は、それこそ寅さんみたいにバッグ一つでどこへでも行けるってくらい身軽なのが一番良いんだと思う。山田洋二に言わせれば、はなっからそんなこんなを含めての「男はつらいよ」というテーマ、タイトルなのかも知れない。物を「持つ」、彼女を「持つ」、家庭を「持つ」、定職を「持つ」ということに対して寅さんの姿があって、でもそれは理想論でしかなくて、理想論だから映画として表現するしかなくて、ゆえに「男はつらいよ」なのだろう。
「持つ」たびに、その場所に縛られていく気がする。それで良い人はそれで良い。でも俺は嫌だ。
唯一執着しても良いのは「自分」だけだと思う。自分を「持つ」ということだけだと思う。
「わかばあります?」って聞いたら、「ないです」って言われた。
自分より随分歳上の、「大好き」どころではないくらい好きな人間が老いていく。
会いたいけど会えない日々。虚ろに重い表情を浮かべつつ、人生の裏庭に佇み老いていく、かつては誰より強かったその人の姿、背中を想い浮かべながら過ぎ行く日々。
わかる?
わからない人はもうこのブログを読まないでください。
村八分の歌詞の中に「そうさ全て俺のせいさ」というのがあって、俺はこれを聴くたびに少し救われた気がする。
「そうさ全て俺のせいさ」みたいな想いを日々重々噛みしめながら、謙虚に、必死こいて生きてる人間を見掛けたら俺は男女を問わず考える前に「友達になって!」って言う(最近、俺は本当に、友達になって欲しい人には「友達になって!」って言う)。
で、少なくとも、俺の友達はみんなそんな奴らだ。だから大好きだ。
一方、自分と考え方が違う=ムカつく、みたいな人がいる。
死ねばいいのに。
我慢すること、不本意な気持ちを背負うこと、我慢していながら、不本意な気持ちを背負っていながら、「余裕っすよ!」みたいな顔をする人のことを「大人」と呼ぶのなら俺は一生大人になんかなりたくない。
子供の時、俺は「じゆうちょう」が大好きだった。表紙を開くと真っ白。あれが大好きだった。
「大人」の自由―例えば居酒屋でここぞとばかりに馬鹿騒ぎしている大人たちの立ち位置。あれは「余白」であって、じゆうちょうの白じゃない。
余白な自由なんて、団地の中に取って付けたようにある陽のあたらない公園みたいなもんだ。
先生が「自由に、描きたいように描きなさい」と言うと、友人たちは困惑していた。俺はそんな友人たちがいつも疑問だった。みんな「〇〇を〇〇な感じに描きなさい」と言われたら文句一つ言わず描くのに、「自由に描け」と言われるとただただ困惑していた。子供心になんだか嫌な予感がした。
嫌な予感は的中した。気付けば正解か不正解しかない世界に放り込まれていた。
何が嫌いって習字の時間が大嫌いだった。自分の書いた字を、なんの躊躇も遠慮もなく「これが正解です」と赤い字で修正されるのが子供心に我慢ならなかった。
生きづらい。
休日。しかしながら金が無くて何もできず、とりあえずチャリンコを転がしてコンビニでビールを一本買って近所の公園に来た。
ビニール袋の音に反応して鳩が集まってきた。ビールの栓を開けると「なんや、食いもんちゃうやん」みたいな顔をして離れていった。
ウォークマンの中で回転してるCDは村八分の『ライブ+1』
俺、ほんの数年前までライブハウスを転戦してる誇り高きバンドマンだった。
チャゲ&ハゲ&派手&嫁
チャゲ&ハゲ&派手
チャゲ&ハゲ
部屋とYシャツともやし
俺は痩せても枯れても「音楽の人」である。従って、その辺の人よりは音に敏感で、ゆえに人の口調、その抑揚に対してもその辺の人よりは敏感である。
以前にもここで述べたように、俺は『わかば』という煙草を吸っていて、時に『わかば』な気分でなければ『エコー』というのを吸ってはいるが、基本的にはやはり俺は俗に言う「ワカバー」である。
タール19mg、ニコチン1.4mg。最強にして最恐。銘柄こそ『わかば』だが、その内容たるや若葉を踏みにじる勢いで殺人的であるからして、吸っているとたまにめちゃくちゃ気分が悪くなる。
今回はその『わかば』を購入する際の話。『わかば』だって煙草は煙草。頬に傷のある見るからに暴力的な人と路地裏で人目を忍んで落ち合っては取引をして手に入れるというようなスリリングなことをしなくても、その辺のタバコ屋やコンビニで普通に売っている。しかしながら、そうやって普通に売っているにも関わらず「わかばください」と言うと、微妙に店員の対応、イントネーションがおかしいことに最近気付いたのである。10中8、9「わ、わかばぁ!?」みたいな感じに言われる。そして「は、はい、わかばですね。えーっと、えーっとぉ」などとやや焦り気味にカウンター下を探られたりする。別に俺はヤク的なものを買いに来たわけじゃないし、だいたいそんなにあからさまに焦った対応をされると、周りの視線が気になる。強盗かなんかだと思われて通報されて、翌日の朝刊の片隅に「わかばで逮捕」なんて間抜けな見出しの横に顔写真が載るようなことになったら困る。生活に困る。
世に数多くいる愛煙家の中で、なぜ我々ワカバーだけがこのような目に遭わなきゃならんのか...真面目に考えてみた。そして、『わかば』という名称に問題があるんじゃないか?という結論に達した。このキツさ、この味、この価格、このご時世で『わかば』はないだろう。逆に言えば名称さえ変えれば、なにせ不景気な世の中なんだから、一箱190円のこの煙草はもう少し市民権を得られるはずだ。例えば、緑色のパッケージはそのままに『紅』とか、紅の後に一字添えて『紅鮭』とか、いっそのこと英語名に変えて『バイオレンス・ランジェリー』とか、煙草を抜いて販売して『箱』とか、なんだかよくわからんが『機関車』とか。JTにやる気さえあればなんとかなりそうなものなのだが。
なんともならんか..。だって俺、本当はホープライトが吸いたいんだもの。
自分の日々の行動の何が嫌って、買い物をする時に財布の中に指を突っ込んで小銭を探してる姿とか、電車に乗り遅れそうになって必死こいてガニ股で階段を駆け降りている姿が嫌だ。
だいたいにおいて俺は一年中、365日、何かとカッコ悪過ぎる。
もうちょいカッコ良くなりたい..って言うか、決してカッコ良くなりたかないんだけど、もうちょいカッコ悪くなくなりたいなあ、要するにもうちょい自他共に認める普通の有り様で、日々、暮らせたらなあと思う今日この頃なのである。
ハァ...。
お年寄りがこう言った。「あんた最近入ってきはった人やねぇ。へえ〜、和田さんっていうの。和田って、あの、和田アキ子の和田やね!」
まったくもってどいつもこいつも和田=アキ子。餃子=王将並みに和田=アキ子。
俺の職場に明星(あけぼし)さんっていう先輩がいる。なんでもする。なんでもするから代わって欲しい。
明星一憩か...少々ダラダラしてても出世しそうだ。
んなことねえか...。
社会的な書類。市役所などに提出すべき公的な書類。あれ、ややこし過ぎはしないだろうか。どう書けば良いのか、どう書いて欲しいのかさっぱりわからない。
先日、その最たるものにでくわした。市役所に提出すべき書類。「提出期限厳守」とあったので、急ぎ書こうと思ったらとある記入項目に対して以下のような信じられない注意書が添えてあったのである。
「本人による記入不可(ただし本人による記入は可)」
前者は呼んで字のごとく「本人」で俺のことだが、後者は「ホン・ニン」という韓国人かなんかのことなのだろうか。
役所の人間にはドラッグでも支給されているのだろうか。
今日、音楽好きの割には数少ない所有CDの中から、必要性を感じないものを選んで売りに行く。さらに減る。今回の売りで、生き残りは50枚に満たない数になると思う。
これは良いことだと思っている。自分にとって必要な音楽とは何かを常日頃熟考して、その都度無駄を排除していくというのは、音楽好きが自分自身を知ろうとする上で極めて有効な手段、大切な過程だと思っているからだ。
俺の場合、「あれも好き。これも好き」というのでは、自分自身が自分の掌の上に無いような気がして実に不安だ。
音楽を通してこそ、俺は俺を知れる。
去年の中盤から終盤にかけて、俺の中で一大変化があった。長年に渡って不変だった俺の好きな色=赤が紫に変わったのである。これはれっきとした一大事である。
きっかけは職場に紫のポロシャツを着ていったことだった。「綺麗な色の服を着てるねぇ」お年寄りが口々に言う。紫以外の服には何の反応もないのに、紫の服には驚くくらい反応があって、お年寄りが無類の紫好きだということが判明。「それなら」と、紫のポロシャツをさらに買い足して、ほぼ毎日、着ていったのである。
そんなある日、自分の中で何か化学変化的なものを感じたのだ。紫の服を着ていると不思議と闘争心が湧く。それも、赤のようにあからさまな、周りにアピールする形の闘争心ではなく、人知れず自分の中で燃える炎といった感じの闘争心。この闘争心が自分の能力的なものを数パーセント上げてくれているような気がしたのである。
「自分はデキる」という自己暗示。これが紫の服を着ることによって可能になる。ということに気付いたというのは俺にとって本当に大きな収穫だ。
人間は人間が思っているほど複雑怪奇なものじゃなくて、実はめちゃくちゃ単純なものなのかもしれない。人間=複雑怪奇だとする考え方は人間の希望的観測でしかないのかもしれない。だから、ひょっとしたら、自分の能力みたいなものも、日々のちょっとした気付きと工夫の積み重ねで、思っている以上に引き上げられるものなのかもしれない。
俺ほど打たれ弱い人間もいないと思う。
俺ほど自分以外の人間というものに恐怖心を抱いている人間もいないと思う。
だから、世の中で「礼儀」と呼ばれているもの。例えば上下関係とかそういったものに関して、俺は決して非礼な人間ではないと思う。目上の人や、自分が身を置く世界の先輩に対してはもちろんのこと、気の許せる友人や知り合い以外のいわゆる「他人」に対して俺は決して非礼な人間ではないと思う。非礼でいられるほど俺は剛胆でもなければ勇敢でもない。
俺は本当に、心底、人間というものが怖い。たぶんこれは、この病的な恐怖心は、自分でも信じられないほどの自己評価の低さからきてるんだろうと思う。自己評価がめちゃくちゃ低いということはすなわち、他人に対する評価がめちゃくちゃ高いということだ。だから俺のこの恐怖心というのは、一体いつから始まったんだか、昼夜を問わず、毎秒毎分毎時間、日々、俺の中に絶えず降り積もり積もっていく本来であれば尊く美しいはずの「尊敬の念」がおぞましく姿を変えたものだと言えるのかもしれない。
そう言えば俺は今までずっと人を見上げながら生きてきた。正直、「自分だけが劣っている」なんて思いながら生きてきた。無意識下で...じゃねえな、はっきりと意識的に。だから、あえて人を怒らせるようなマネはしないし、怒らせるくらいなら自分の考え方なり意思なりを一瞬にして黙殺してしまえるというとても残念な特技を身に付けてしまった。
名前は生き方を左右する。俺の名前は和田一憩。「憩」の字に相応しく、良く言えばのんびり、悪く言えばだらだら生きてきた。でも、音的なイメージ、感覚的には、俺の名前は本当は『和田畏敬』なんじゃないか?と思う時がたまにある。
毎日、恐怖心でいっぱいだ。
小田和正
遅ればせながら新年開幕に寄せて。
2009年は死ぬほど長かった。そもそも子供の頃から俺は、一年の終わりに際して「あっちゅう間やったな..」なんて思ったことが一度たりともないのだが、それにつけても2009年は特別長かった。感覚的には3年分くらいの長さと重さを感じた一年だった。しかもこうやって2009年が終了したところで、俺の32歳はまだあと25日も続くんだから本当にゾッとする。目指す場所、出口になかなか到達できず、息継ぎもままならないといった感覚。まるで「、」や「。」の無い小説を読みながら、下りエスカレーターを上へ上へ逆走している感じ。
でも、ま、正直、年が変わったところで大して何も変わらんのだろうなというのが俺の本音。が、ものは考えようで、俺が個人的に密かにそんな風に思っていても、俺を取り囲む多くの善良な市民は「抱負」と呼ばれる豆腐並みにやらかいものを拵えるなどして変わろう変わろうとしてるんだから、そんなこんなが俺の生活に影響を及ぼしたとしても全くもって不思議ではなくて、さらに人間が変わろう変わろうとしている時期というのは要するにどっちつかずな極めて不安定な時期とも言えるわけで、社会的な目が俺なんぞを相手にしている余裕が無い稀有な時期とも言えるわけで、言うなれば今、俺はノーマーク和田。「変わろう!」と思い、動くにこれ以上ないタイミングなのである。
では2010年、俺は俺自身をどう変えたいのか。俺は俺の2010年をどんな一年にしたいのか。これはもう「ポジティブ」の一言に尽きる。2010年も結局は戦わねばならんと思う。闘わねばならんと思う。ただ、戦うのなら闘うのなら夢のある発想を根本に持ちながら戦ったり闘ったりしたい。大好きな事の為に、大好きな物の為に、大好きな人の為に自分の頑張りがある...そんな一年にしたい。「やっと立ててる」みたいなのはもう御免だ。
誰が何と言おうが今年はポジティブにいく。ライヴもやるよ。最低でも5回はやる。量より質。毎回、濃いのをやる。できればバンドで、無理ならソロで。形には拘らない。とにかく、俺は今年も音楽をやる。どんな形であれ、やる。これは、これだけは愛読者の皆さんと自分自身に約束します。
皆さんに幸多きことを祈りつつ、幸多き中でこのブログを読み続けてもらえることを祈りつつ、乾杯!
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