大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2009年9月アーカイブ

書き込み、ありがとうございます。文章、読ませてもらいました。本当に、何て言えば良いのか...嬉しかったです。

音楽にせよ、文章にせよ、「表現」というものをリアクションの薄い中で続けていくというのはそれなりに気合のいることです。その証拠にまず音楽の方では誰の為に歌ってるんだかわからなくなってしまったし、このブログだって、例えばこの「書込寺」というコーナーは「誰かが読んでくれているってことを感じたい」って気持ちの現れで、駄目元で建立したとはいえ、この先、書き続けていくためには誰かからの何かしらの反応が欲しかった、必要不可欠だったから建立したわけです。

音楽にせよ、文章にせよ、僕の売りは「赤裸々である」ってことで、僕は僕の作るものをちっとも悪いとは思わないし、性懲りもなく思えないので、そんな自己評価と周りからの評価との間に大きな隔たりがあると、あり続けると、実は人知れず孤独だったり辛かったりするわけです。

トモコさんの文章を読んで大袈裟ではなく、本当に、救われました。同じアルバムなのに昨日よりも今日の方がずっときらびやかに聴こえます。

わけのわからない、いかんともしがたい邪魔が入らない限り、このブログは続きます。今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。あ、あと、たまにものすごくふざけたのも載せますが、それはそれで笑えたら笑ってください。よろしくお願いします!

夜勤明け。とある公園のゴミ箱2つ。

最初、俺は「びんかん(敏感)」って書いてあるんだと思った。でもすぐに「あ、ちゃうわちゃうわ!」と気付いて、「かびん(過敏)って書いてあるんやね」と思ったが、すぐに「びかん(美観)」って書いてあることに気付いて、ホッと一息ついた。

全問不正解。

明らかに疲れている。

駆け込み寺を文字って「書き込み寺」

これから定期的にこの「書き込み寺」なるコーナーを設けます。これは、読者の皆さんのコーナーです。この寺にコメントという形で何でも良いから書き込んでください。俺に対する文章でも良いし、このブログを管理する剣吾くんに対する文章でも良いし、このブログの読者の皆さんに対する文章でも良いし、日本国民全体に対する文章でも良いし、例えば、あなたの身に今日起こったことを日記的に書き込むというのも全然ありです。ただし、毎度、締め切りはここに「書き込み寺」の表示が出てから一週間とします。なので、今回は10/2が締め切りとなります。

このブログが読者の皆さんの「秘密基地」になればいいなという気持ちは変わりません。皆さんの参加によって、このブログがもっともっと分厚いものになればいいなと思っております。

毎度、期待せずに、でも楽しみに待っております。よろしくお願いします!

できれば年内に、カバー曲だけでライブを演ってみたいと思っている。以前にこのブログにも書いた桜井和寿の「NOT FOUND」とか、最近勝手に「兄貴」と呼ばせてもらっている宮本浩次(エレファントカシマシ)の「今宵の月のように」とか、村八分の「あっ!」とか、奥田民生の「コーヒー」「厳しいのである」とか演りたい曲が自然と頭の中に揃ってきた。あるいは、オアシスやティーンエイジの曲に自作の詞を乗せて歌うというのもありだと思う。とにかく、一度、自作の楽曲と自分自身から離れてみようと思っている。

演るとしたら天六の「音太小屋」になると思う。たぶんあそこ以外では演らない。

実際に演るとなればまたここで告知するので、気が向いたら観に来てください。

最近「俺はこのまま老いていくんだろうか?」というフレーズに付きまとわれている。

俺は決して優柔不断な人間ではないし、まだまだ夢を捨てたわけじゃないし、捨てる気も毛頭ない。ただ弱すぎるのだ、他人に対して。24時間、365日、人の顔色ばかり窺っている。これがガラでもなく「ストレス」らしきものになって、積もり積もって、時間さえあれば酒ばかり飲んでいる。こんなのは嫌だ。なんとかせねば!とは思うがどうにもならない。抜け出せない。

こんなことではいつまで経ってもステージに戻れない。

正直、情けない話、助けて欲しいと思う。でも、それ以上に明日、この文章をブログに載せたことを悔やむんだろうなと思う。

でも載せる。

俺は俺がどうしたいのかさっぱりわからない。でも、ま、そうやって今まで生きてきたし、これからもそうなんだろうなとは思うが、なんだ、その、いや、よくわからない。

とにかく、ジョン・レノンという男は最高だ。

例えば、あなたが左手に砂金の入った袋を持っていたとして、時間を追うごとに軽くなっていったとしたら、そしてその袋のどこにどれくらいの穴が空いてるのか誰も何も言ってくれず、自分では皆目見当がつかないとしたら、ものすごく不快、かつ不安ではないだろうか?

例えば、あなたが船に乗っているとして、明らかに沈んでいってるのはわかるが、船体のどこにどれくらいの穴が空いてるのか誰も教えてくれず、自分では皆目見当がつかないとしたら、ものすごく不快、かつ不安ではないだろうか?

袋のどこにどれくらいの穴が空いているのかを知っていながら言わず、船体のどこにどれくらいの穴が空いているのかを知っていながら教えてくれない人たちの目の奥に自分に対する侮蔑の念が見てとれたら、あなたは笑顔でいられるだろうか?

俺は今、「伊丹人をナメるな!」と喚きながら、砂金の入った袋片手に船に揺られている。

「社会」という言葉の根っこにある考え方は早い話が多数決だろう。大多数の人間がある方向にドッと流れて、その方向が本当にイケてるのかどうかといった議論を抜きに、とりあえずこの流れを「ナウい」と認定する暗黙の了解の下、「社会」と呼ばれるものが日々更新されるんだろう。

日々更新される。ということは日々形を変えるわけで、実に不安定なものということだ。例えば「社会はそんなに甘くない」と言う言葉は昨日と今日では意味が異なるということだ。

だいたい、「大多数の人間」というのが信用できない。ゴールデン・ウィークに高速を渋滞させたり、サザンのライブに足を運んだりしている人たちが「社会」を日々更新している張本人なのだとしたら、俺は「社会的に終わってる」とか何とか言われてもいっこうに構わないし、逆に嬉しく思う。

「ロック」の一般的な定義は「反体制」とか「反社会」だ。こうやって「社会」なるものの成り立ちを自分なりに熟考してみた後でこの「ロック」という言葉に触れてみると、これがただカッコいいだけのものじゃなくて、思想的に物凄く正解なものなんだなということに気付く。

やっぱり好きだ。ロック。疑いの余地なし。

わからんもんはわからん。

中学生の頃がピークだったような気がするが、変わっている人間や、変わっている人間の行動や言動に憧れた。自分も変わってる人間になりたい!変わっている人間だと思われたい!などと思っていた。

完全に若気の至り。さすがに今はそんなこと全く思わない。そんなことを思っておっては生きていけない。町田康の言い方でいうと「出世が覚束無い」ので、そりゃ無味無臭というのも嫌だが、ほどよく無難に、普通でいたいと思っている。

が、残念ながら俺は32にして変わっている人間らしい。ミスター手遅れ。要するに「残念に仕上がった」わけだ。

中にはこんな人間の存在を楽しんでくれる人間もいて、早い話が俺の友人たちは皆、そんな達観した神経の持ち主なのであるが、大概の人間にとっては俺みたいな人間は不可解の塊で、場合によっては不快ですらあるらしい。

ま、でも、そんな人たちの顔色や目線に臆しておっては、それこそ俺の出世は覚束無いわけで好きにやらせてもらおうと思っている。

小さな世界で少数の人々と決して短くはない時間を一緒に過ごさなくてはいけないという状況下で、色とりどりの逆風に吹かれて、へこたれそうになって、でもここで一発自らを奮い立たさねば他に選択肢はないしどうにもならないという時がある。俺は、俺に関してはそういった状況下で無理矢理にでも自らを奮い立たせることができるのは2度が限度だと思っている。2度目の奮起で駄目ならそもそもその世界に身を置いているということの意味的なものを考え直さねばならんタイミング的なものが来ていると俺は捉える。

今、とある世界で俺は2度目の奮起に突入している。これで駄目ならそれはもう駄目だ。抜本的に考え時だ。ただ、今一度奮起して、ここで一発、伊丹の最北端で育った人間の底力を見せてやろうと思っている。

誇り高き伊丹最北端の血。その辺に吐いて捨てるほどいる大阪人とか神戸人とかと一緒にしてもらっちゃあ困る。希少価値が違うんだ、ハングリースピリットが違うんだ馬鹿野郎!

今、一人、酒を飲みながらテレビを観ていると、桑田佳祐がアコギを弾きながら最近の日本に起こったこと、主に政治的なことを畏れ多くもブルースのコード進行に乗せてまくし立てていた。

吐き気をもよおすほどに最低だった。悪夢。言ってるようで、何も言ってない。怒ってるようで怒ってない。たまにカメラ目線。これを、こいつを褒め称える日本人って本当に救いようがねぇな、と思った。そして、同時に、これこそが今の日本人の姿なんだと思った。

桑田佳祐ってのは、彼の存在、表現ってのは、今、腐るほどいる大多数のアホな日本人の象徴だ。日本人はどいつもこいつも桑田佳祐みたいだ。男も女も老いも若きも皆、結局何にも言ってないし、怒ってない。言ってるふり、怒ってるふりをしてるだけで、知っているのは、上手いのは陰口だけだ。





聞こえてんのか!コラ!清志郎さんよお!!

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

窮屈だ。

昨夜、壁、殴った、血ぃ、出た。

遅くなりました。でもしっかりお答えします。

最近、俺の身に起こった世にも奇妙なチョメチョメな出来事。

夜。小さなライトが一つ灯っているだけの薄暗い一室。目の前に車椅子に座った、意識のはっきりしない、「老婆」と呼ぶには若過ぎる感じの老婆がいた。その老婆は洗面所にいて、老婆の目の前には鏡があって、無言で鏡を見つめていた。俺はその傍らでしゃがみ込んで、老婆の表情を覗き込んでいた。老婆の後ろには若い女の人が立っていて、老婆の顔の真横に自分の顔を突き出して、老婆と視線を同じくして鏡を見つめていた。そして、その女の人が鏡越しに老婆に言った。「この兄ちゃんの目、綺麗やろ?」

頭が割れるくらい嬉しかった。





アントキさん、こんなんでいい?こんなんは期待してなかった?でも実話です。俺の心がザブン!と音をたてて浄化された一瞬の出来事です。

「うるせえよ馬鹿野郎!」

心中思いながら、気付けば笑顔で握手してしまってたり、謝ったりしてしまってたり、全く納得のいかない相手の主張を飲んでしまったりしている自分がいる。

俺ほどの臆病者はいないと思う。そんなことは子供の時から重々自覚していた。していたがゆえに親父が教えてくれた「ロック」という音楽、姿勢が大好きになった。「救い」になった。

親父はものすごく優しい人で、ものすごく優しい考え方の持ち主で、俺のそういった臆病な部分を一言「お前には想像力があって、先を読もうとするからや」と言ってくれて、俺の日々の自己嫌悪を緩和しながら、同時に想像力を伸ばしてくれた。

でも俺はこんな想像力はいらないと思う。言いたいことを言えず、やりたいことをやれず、人の顔色ばかり窺って、気付けば相手に笑顔でいて欲しい一心で不本意にも頭を下げてしまったりしている。

不本意が不本意を生んで、その不本意がまた新たに不本意を生んで、そうこうするうちに相手はジャンジャンジャンジャンつけあがっていって、もはや手の付けようのない、それこそ極めて不本意なバランスの上に関係が成り立ってしまって、固まって、俺にとって何が一番不本意って自分自身の有り様が一番不本意だ!みたいなことになってしまっている。

ことなかれ主義で迷宮入り。

ことなかれ主義ほど「ロック」なる言葉の真逆を行くものはないのに、俺はその真逆街道を突き進んで、その結果、迷宮入りしてしまった。

何らかの形で爆発したい。でも、もし今「よし、爆発しよう!」と決心してすぐに爆発できるくらいなら、俺は元々迷宮入りなどしていないはずで...。

あなたに笑顔でいてもらおうと思うたび、俺はあなたの主張と自分の言葉を飲み込んでいる。薬は水で飲むものだが、あなたの主張や俺自身の言葉といった違和感の塊のようなギャシギャシしたものは水ではとてもじゃないが喉を通らない。酒的なもので自分を忘れながらでなければ喉を通らない。

ズンズンズンズン駄目になっていく。それでも何とか生きていことする中でジャンジャンジャンジャン「秘密」が増えていく。例えばこのブログもこれで130本目。このブログ自体が秘密なんだから、ここにすでに130もの秘密があることになる。これを俺は可能な限り隠し通さねばならない。

俺を意のままに操るほど簡単なものはないと思う。ただ黙って、不機嫌そうにしてりゃいいんだから。

この一連の札を作成した人物は完全に病んでいる。

もっと凄いのを見つけた。

自戒と他戒の融合。手がつけられないくらいに面白い。町田康もびっくりの日本語破壊の最極北。

某公園の木にくくりつけられていた札。「あぶない」というフレーズの後に「.」があるから「あ、この木に登ったら危ないんだな。登るなってことだな」ということが知れるが、もし「.」がなかったら、「あぶない木にのぼるな」となって、かなりシュールな表現になる。

やっと平仮名が読める感じの未来ある子供に、短期的な目線ではなく長期的な目線で何か諭そうとした場合には「.」がない方が良いんじゃないかと思う。

あぶない木にのぼるな。

自殺は怖い。そんな根性はない。ものすごく痛そうだし、苦しそうだ。絶対嫌だ。でも、だから、自殺以外の偶発的なことで死ねるんなら死にたいなと思っている。思い続けている。車に轢かれるとか、通り魔に刺されるとか、そんな感じであればいつでも来い。さあ来い!って感じだ。

発泡酒を可能な限り飲みまくっても、ちょっと気分が悪くなって仕事に支障をきたすだけで、ゴールには程遠い。

きっと俺は死なない。死ねない。明日も明後日も来年も再来年も俺はきっと生きてる。ダラダラダラダラ生きてる。でも、自分の希望する形で死ねるんなら死にたいとずっと思っている。

たまにはこんな文章もいいでしょ?大丈夫!どうせ死なねえし、死ねねえんだから俺は。

何のために働いてるんだかさっぱりわかんねえ。

前日までセットリストが決らなかった。どの曲をどう歌っても感情が入らず、「明日はたぶん駄目だな..」と思っていた。

ライブ当日、須磨に到着。海。自分とは生きる世界が違うとしか思えない、若さにまかせて浮かれている感じの男女が水着を来て常に笑っていて、「今日は本当に駄目だ..」と思った。

前日から何故か体調が悪かった。ステージの後ろにある物置場所みたいな汚い空地でずっと横になっていた。

イベントが始まった。聴いていた。どのバンドも水を得た魚のようにイキイキと演奏していて、海の家で演るに相応しい音を出していて、客もそれをものすごく喜んでいて、一緒に歌うなり踊るなりしていて、俺は人知れずズンズンズンズン追い込まれていった。

俺の出番。「誰の為に歌えばいいのか?」という疑問と、「俺が今まで書いてきた曲って..本当にイケてるんやろうか?」という前日からの致命的な不安を引きずったまま、ステージに上がった。

1.ストーカー

2.女救世主ニーズ

3.金平糖

4.孤高

の4曲を演奏した。本当は新曲「FLOWER」も演るつもりだったが、どうしてもラブソングを演る気になれなかったので削った。

案の定ガタガタだった。全く感情が入らなかった。歌詞を忘れた。コードを忘れた。最低だった。孤高を演り終えた時、ステージ上でギターを叩き割ろうとしたが、そんな根性を持てるほど、俺は金に余裕のある人間ではなかった。

歌い終えると再び空地に戻って横になった。「考えねばな..」と思った。

ソロ活動をやめるべきかどうか、今、人知れず、ものすごく考えている。たった一度のライブがうまくいかなかったからといって、俺はそこまでへこまない。それなりに経験は積んでる。ただ俺にとって最大の問題は「誰の為に歌えばいいのか?」とか「自分の曲は本当にイケてるのか?」とかいう初めて抱いた、抱いてしまった疑問であり、そんな中で「全く感情が入らなかった」という致命的な事実だ。

イベントに誘ってくれた人達に対しても申し訳なさでいっぱいだ。

いよいよもって追い込まれてきた感じがしている。

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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