大阪在住のうたうたい&絵描き&詩人 和田一憩(わだいっけい)のブログです。最新情報も随時配信していますので要チェック!!です。 携帯サイトはコチラ

2009年7月アーカイブ

「ゾリッペン」と呼んでいる。

小学5年の時、靴下の爪先の部分が破れていて、その破れている部分をグッと指の下に潜らせて隠すことを「ストラングラー」と呼んでいる友人がいた。もちろん、「ストラングラー」なる英単語と、その行為との間に関連は一切ない。ただ、彼の中でその行為を音として表現した場合に「ストラングラー」以外の何物でもなかったのだろう。

彼のそんな感覚、俺には良くわかる。例えば俺は、明日絶対に早起きしなければならない用事があるのに、どういうわけだか目が冴えて眠れないといった最悪な状況を「ボンジョヴィ」と呼んでいる。おとといの夜、俺は完全にボンジョヴィだった。一晩中「アカン!完全にジョヴィってしもた」と嘆いていた。あと、巷で大流行のあのゴム製のカラーバリエーションに富んだ超軽量サンダルのことを俺は「ベッポンセン」と呼んでいる。あのサンダル、俺の目にはどう見てもベッポンセンだ。歩く度に「ベッポン、ベッポン」と情けない足音がしそうな気がしてならないし、脱ぐ時にストラングラー対応している靴下と擦れる時の音は間違いなく「セッ!」で、表記上は「セン」で問題ないだろう。

ちなみに俺は、俺みたいな残念な奴のことを「ホセ、ホホホホホ〜ホ、ホセ、セスセスセー、ホセ、ポ、ホセ、ホセホセ、セセセホセ、ホセスホセホセ、ピ、セーホセ、ホセセ、ホセフホセ、ホセホセースホ〜、ホ〜、ホ〜、ホ〜、ホセ、ポセ、ポンセ、ホセ〜スホセホセ、ホセパホセホセ、セ!セ!セ!ホセ...ホセ!?」と呼んでいる。

親父の許可を得て、親父の絵を一枚。

うちの親父は俺が産まれるずっと前から絵描きである。そしてうちの親父は基本的にうちのオカンしか描かない。要するに、うちの親父は自分の妻の絵しか描かないのである。

俺はそんな芸術家の息子である。

たった2ヶ月の間隔でライヴをやるっていつぶりだろう。感覚の鈍らぬ間にまた次のライヴが決まっているというのは本当にグレートな事だ。

長い長い半隠居生活のおかげで昔より一本一本のライブを大切にしようという気持ちが自分の中にある。だから、バンド解散後に行った4度のソロライヴはどれも自画自賛の出来だった。

次のライヴ、5度目のソロライヴ、ヒダリ主催のイベント『海の家ライブ』ではソロ転向後初めて、バンドと当たる。バンドの音圧とかリズムとかにギター一本で挑んで、「勝った」と思えたら今の俺にとってこれほどの収穫はないと思う。

ライヴというのは勝負だ。やる以上は勝ちにいく。意地でも勝って「次」につなげる。

ラサール石井が大嫌いだ。

8/26(水)、JR須磨駅すぐの海の家『スプラッシュ』で行われるイベント「海の家ライブ」へのソロでの出演が決定しました。

詳細は後日。

ここから「いってきま〜す!」で、ここへ「ただいま〜!」な20年間だったのだ。

どうだ。凄いだろう。どう見ても金持ちには見えんだろう。実際、めちゃくちゃ貧乏だった、らしい。俺は全然気付かなかった。

今思えば眩しい程の記憶、ただただ楽しい20年間だった。

俺は1977年(昭和52)1月31日の雪の降る夜、伊丹市民病院で産まれた。そして、幼稚園に通う一年間だけ神戸の西灘(現・王子公園)に移り住んで、卒園後すぐに、伊丹に引き返してきた。写真(一番左)はその後、俺が20年間住んだ家である。去年の今頃に撮った写真。去年の時点でこの長屋に残っているのは2世帯だけだった。この2世帯が出ていけばきっとこの長屋は取り壊されるんだろうと思って写真を撮っておいた。その時はまさかこの極めて個人的な写真を自分のブログに載せて公表するようなことになろうとは思いもしなかった。

この家で培ったことこそが今現在の俺という人間の基礎だと言える。こっから先の人生、玉砕的な姿勢でもって切り開いていくにしてもまずは「温故知新」「初心忘るるべからず」、原点を忘れては何もならんということでこの写真をここに載せ、皆さんの眼前にさらすことをもって、自分自身の胸に瑞々しい初心をタトゥーの如くに刻ませていただいたという次第です。

俺は一芸に秀でている。しかし九芸に劣っている。実にバランスの悪い生き物だ

正直、俺は前回のライブ中にも話したように、和田一憩という人間は天才だと思っている。音楽も絵も文章も独学で、さらに「独学」と呼ぶのも気が引けるほどに学ぶということを一切せず、ただヘラヘラ笑いながら誰ともかぶらない音楽や絵や文章を描けてしまえてるというのは、これはもう天才と言わずして何と言うのか?くらいに思っている。にも関わらず同時に、不思議なくらい冷静に、冷酷に自分のそういったおめでたい自己分析に対して「だからどうした」とも思っている。

かのレノンも子供時代から自分は天才だという自覚があったらしく、「僕が紙の断片とかに書いた詩や絵は捨てたりしないほうがいいよ」などと言っていたらしい。実に生意気なガキだ。でも俺も子供の時、同じようなことを思っていた。「ここ(伊丹最北端)はそのうち観光客でいっぱいになる」なんて思っていた。

俺は子供の時からコンプレックスの塊だった。他人が普通に、何の苦もなくできることが自分にはできない。自分が人一倍できることというのは決まって他人ができないこと、要するに他人が好き好んでやろうとはしないことに限るということを子供ながらに良くわかっていた。このコンプレックスが皮肉なことに「俺は天才だ」と思う何よりもの土台になった。これだけ病的に能力が偏っているというのは選ばれた人間だからだ!という解釈。そうでも思わないと生きづらくてしょうがなかったのである。

気付けば32年の永きに渡って、一芸はちっとも実を結ばず、金にならず、天才は自称と自嘲の境を低空飛行し続けるより他なく、「だからどうした」という言葉をこれっぽっちも拭えぬままにこんな所まで来てしまった。こんな遠くまで来てしまった。一芸にしか秀でていないにも関わらず、その一芸において食っていけない自分というのは一体何なんだろう。「天は二物を与えず」と言うが、このままでは俺は一物も与えてもらえなかった残念な人みたいな事になってしまう。せめてもう一つ芸があれば、自分と自分の作ったものを売り込む能力みたいなものがあれば、自分は自分の人生はだいぶ違ってたろうになと思う。しかしながら俺にはそんな能力はおろか、気力さえ元々持つ気がない。

「ランプは必ずテーブルの上に置かれる」という言葉をうちの親父がよく口にしていた。本物はいつか必ず持ち上げられるということだ。俺は今までずっとこの言葉を信じてきた。これから先も信じていくんだろうと思う。ここまで来たらもう信じ切るしかない。

俺はただ自分が大器晩成型のランプ、略して『デカイランプ』として生まれてきたであろうことを祈るのみだ。もしそうじゃなかったら...そんなことを想像してへこむ能力さえも俺にはない。

ないないない、ないもの尽くしの俺。でも一個だけ俺は確実に持っていて、そのたかが一個がために俺は生きるということになかなか諦めがつかんのだ。

レノンは自分の作ったものに食わせてもらえていた。カートも自分の作ったものに食わせてもらえていた。ジャニスもヘンドリックスもモリソンもみんなそうだ。にも関わらず死んだ。贅沢三昧か。俺にはそんな「それでも..」な苦悩がわからない。全くわからない。わかりたくもない。わからないまま生きてやる。これはこれでロックだろう。

ロックンロール!

昨夜、夢の中にうちの親父が出てきた。

俺が不本意ながらに飾り立てたらしい何らかの会場みたいな場所にいつもの格好、チェック柄のシャツとジーパン、くわえタバコといった姿で現れた親父はもの凄く申し訳なさそうな表情を浮かべて視線をずっと床に落としたまま、俺と目を合わせようとしなかった。

「嫌だ!」と思って深夜、目を覚ました。

親父に会いたい。

俺はやっぱり、男ってのは破滅型がカッコいいと思う。友人や知人に「あいつ、まだ生きてるんやろか?」などと真顔を隠しながら言われてるくらいがちょうどいい。でも本当に死んじゃいけない。死にそう、でも死なない。このギリギリのライン。これを50や60になっても続けていくというのは、例えばうちの父親が結構そんな感じなんだけども本当に難しいことで、そんな生き方で生きているというのはもうそれ自体が奇跡的なことやと思うんやけど、だからそう、男がずっとカッコ良くいられるというのは奇跡と読んでも過言じゃないくらい難しいことなんだと俺は思う。残念ながらほとんどの男は30を越えたあたりから早々にオカマみたいになってしまう。

健康に気を使っている男って最低だ。と、いつも思う。金銭的な理由でならまだしも、健康面に配慮して「俺、タバコ、やめた」などと接続詞のない言い方をしている奴を見るとどうしても「カッコ悪っ!」と瞬時に思ってしまう。「誰の為の長生き願望やねん」と思ってしまう。かと言って自分がキース・リチャーズやそれこそ自分の父親みたいになれるのかというとそれもまた疑問だ。

ただ、自分が自分でなくなっていることにも気付かなくなっているような状態、自分らしくありたいという願望さえ失ったようなみすぼらしい状態でだらだら長生きするのだけは勘弁、絶対にしたくないなと心から思う。

コメント、感謝します。あなたみたいな人がいると思うだけで、頭の中に新しい曲のアイデアが3つくらい浮かぶというものです。

もう少し待ちぼうけていてください。多少時間はかかってもその待ちぼうけ期間に見合う復活劇を披露してみせたいと思っております。

というわけで、バンドワゴネスクはメンバーを募集します。

我々がどんなバンドをリスペクトしているのか、どんな姿勢で音を鳴らそうとしているのかはあえて書きません。このブログを読んでいただければ一目瞭然です。

第一にドラマーを募集します。同時にドラマーとベーシスト以外のパートも募集募集します。ただしドラマーとベーシスト以外の募集に関しては歌えることを前提とします。

性別、年齢不問。俺しかいないだろう!私しかいないだろう!と思われた方はこのホームページに直接メールをくれるなり、このブログにコメントを寄せるなり、仕事終わり、もしくはプライベートでぶらぶらしている俺か剣吾くんを待ち伏せするなりしてください。

お待ちしております。

あくまでソロでの活動がメインとは言え、俺は再び盟友、剣吾くんと組んでバンドをやることに決めた。反対するならすりゃいい。知らん。知ったこっちゃない。

バンド名は『バンドワゴネスク』。俺と剣吾くんが共通して死ぬほど好きなバンド、かつてアルファベッツを結成する前に伊丹の俺の部屋で暇さえあれば会い、お互い死ぬほど酒を飲みながら繰り返しライブ映像を見ては「こんなバンドがやりたいな..」とお互いに呟き合っていたバンド『ティーンエイジ・ファンクラブ』の傑作2ndアルバムのタイトルをそのままいただいてバンド名に冠した。

以前にもこのブログの中で「もし俺と剣吾くんが再び一緒に音を出す時が来たらその時は..」みたいな文章を書いたが、今回、俺と剣吾くんが『バンドワゴネスク』をやるに当たっての方針はその時の文章と寸分の狂いもない。ただただ「良い音楽をやり続ける」この一点だ。

地味でなにが悪い。良い音楽をやり続ける。もう二度と解散はしない。俺は再び剣吾くんと組んで本当に音楽、ロックが好きな人間の底力を見せてやる。と思っている。

メンバーが決まれば活動を本格的に開始する。が、安易には動かない。始動までに少々時間がかかってもそんなのは後々自分たちが表現しようと思っている音楽のことを想えば屁でもない。

次回ブログでメンバー募集をさせていただく。

万が一、自分のやりたいことが、自分のやるべきことだった場合、モタモタしていては取り返しのつかないことになる。いい歳をして常に誰かの了承を得てからしか動けない、何もできないというのでは駄目だ。男として問題だろう。

『玉砕』―俺は動こうと思う。決めた。全て事後報告でいく。希望観測的に思うに、昔ながらの俺の友人たちが俺に求めてくれているのはこういうキャラ、姿勢だろう。もう死んだふりはやめだ。や〜めた。くだらない。ウンザリだ。動く。俺は動く!

惚れられたい。

俺の味覚は死んでいる。味の良し悪しが全くわからない。基本的に食えりゃなんでもいい。牛肉と豚肉の違いが見ても食ってもわからない場合が多々あるほどに俺の味覚は死んでいる。が、そんな俺にも唯一わかる味がある。わかるがゆえに妥協出来ないものがたった一つだけある。発泡酒である。発泡酒の美味い不味いだけは俺はわかる。音楽の良し悪しと同じくらいわかっている。と、自負している。というわけで今回は俺の選ぶ発泡酒BEST5を発表する。熟考と分析を重ねた結果がこれだ。発泡酒はややもするとビールよりも奥が深い。ナメてはいけない。ある意味、護身の為、是非とも参考にしてほしい。

1位/麦とホップ

2位/コクの時間

3位/極旨

4位/クリアアサヒ

5位/該当なし



なおワースト1位は「ジョッキ生」である。あれは不味い。後味が甘過ぎる。味覚が腐る。飲んではいけない。

ここ数日間のうちに、自然発生的に俺の座右の銘が決定したので発表します。これまでの人生、俺には座右の銘なんてなかった。

最近、ことあるごとに2つのフレーズが交互に頭の中で鳴っていた。1つは昔からよく言う「見る前に跳べ!」で、もう1つはハイロウズの歌詞の一節「最低でも死ぬだけだ」。この2つのフレーズが日々、頭の中でシェイクされ続けた結果、漢字2文字に凝縮されて、大樹になったただ1つの果実の如くに手のひらの上にポンと落ちてきた。

『玉砕』である。素晴らしい言葉だ。この言葉を思うだけで、あらゆる恐怖心や不安から解放されて、とりあえずやってみようという気になる。

「一撃」Tシャツみたいな感じで、「玉砕」Tシャツって売ってないんだろうか。買わへんけど。

音楽好きが音楽を聴いている状態というのは、映画好きが映画を観ている状態と同じで、その最中に気軽に話しかけるなどして邪魔をしてはいかんものだと思う。音楽好きが音楽を聴いてる時間というものをもう少し尊重しろ。馬鹿にするな!と心から思う。以前にも同じようなことを書いた。わかっている。が、今後もこれに関しては繰り返し書かせてもらおうと思っている。繰り返し言わんとわかってもらえないからだ。音楽を本当に好きな人間の気持ちをわかってもらえないからだ。

「音楽が好きです」言う資格のある人間はごく少数だ。

2つ前のブログでマイケル・ジャクソンの追悼式を素直にボロクソに書かせていただいたが、唯一、素晴らしいと思える部分があったので追記だけさせていただきたい。

スティービー・ワンダーのステージだけは凄いと思った。やはり彼は別格。天才。歌、上手いどころの騒ぎじゃないし、マイケルに捧げた歌の中の「誰も君の行ったところへは行かないよ」という歌詞はマイケル・ジャクソンのことをそんなに好きではない、どちらかと言うと嫌いな俺でもグッときた。泣ける。

本物はどんなシチュエーションにおいても本物だ。

疲れたぁ..。今日は本当に疲れた。ここんところ仕事をしている夢を立て続けに見ていて、まさに「寝ても覚めても」仕事をしているような状態が続いていた。

明日は休み。安心感からか今、疲れがどっときている。

明日は何をしようか。何ができるんだろうか。

昔からアメリカという国が嫌いだ。アメリカ人という人種が嫌いだ。なんか本当に馬鹿みたいな国。馬鹿みたいな人たちだ。態度がでかくて能天気。何かとデカイばかりで中身がないし、あの国の芸術というのは破壊してばかりで、破壊することを楽しんで、破壊する音を喜んで「ブラボー!」などとスタンディングオベーション。ことあるごとに立ち上がって拍手して、ちっとも構築しようとしない。

それにしてもマイケル・ジャクソンの追悼式は笑ってしまった。マライヤ・キャリーが歌っている映像、ライオネル・リッチーが歌っている映像というのはほとんどコント。追悼式全体が品格のない志村けんのコントからさらに品格を抜いた感じで、その下品極まるコントを涙ながらに観ている客がこれまた救いようのないアホばかりで、ひたすらスタンディングオベーションを繰り返している。立ったり座ったり立ったり座ったり、何の体操やねん!もうええわ!座れ!と言いたくなる。

大勢のアメリカ人が泣いている。哭いている。あれだけ涙の似合わない人種もない。嘘をつけ!と言いたくなる。

これはやはり書かねばならんのだろう。遅ればせながら、マイケル・ジャクソンの死についてである。

まず結論から言うと、ごめん、特に何とも思わない。正直、これがポールやキースでなくてホッとしている。だいたい俺が音楽と本気で向かい合うようになった頃にはもう、彼はステージやアルバム発表から離れて半隠居状態だったし、スキャンダル的なこととあの顔面ばかりが全面に出てきてウンザリ、一度として興味を持ったことはなかった。いくつか知っている曲もあったが、あの80年代バリバリの音が聴くに絶えなかった。ロック好きにとって、80年代というのは不毛の時代で、彼はその不毛の時代におけるキングだった。あと、彼はビートルズの著作権を所有していて、ポールが「返してくれ」と申し出たが断ったというのも、ビートルズファンとしては非常に腹が立った。

というわけで彼の死に関しては特に何とも思わないというのが俺の結論。ただ、『ビリージーン』という曲のメロディだけはイケてると思うし、『ウィ・アー・ザ・ワールド』の映像で大勢のスター達に混じって歌っているボブ・ディランのやる気ゼロな表情は最高だと思う。

今年の3月の終わりから始まったこのブログ。自分でもびっくりするくらい猛烈な勢いで書いてきた。本を全く読まない人間が、そして何よりも言葉を憎む人間が、よくここまで言葉を積み重ねてこれたと思う。だから通算85本目にあたるこのブログで、たまの自画自賛をさせていただく。

ついさっき、仕事帰りの電車の中で、今まで自分が書いてきたものを初めて読み返してみた。何のこたあない。面白いじゃねえか。めちゃくちゃ面白いじゃねえか。トータルで見て、本当に面白いブログ、作品になってきていると思う。小説あり、呟きあり、回想録あり、各種BEST10あり。読者の皆さんにインタビューを乞うてそれに答えたこともあれば、ただのアルバム評もある。「ただの日記では終わらん!」と強く思いながら書いてきたが、気付けばちゃんとその通りになっている。嬉しい。

記念すべき100本目まであと15本。強度的に段ボールでできた『砦』に過ぎなかったこのブログが、あと15本で煉瓦でできた砦になる。煉瓦製ともなればちょっとやそっとの外圧ではビクともしない。このままのスタイルでずっとやり続けていける可能性が格段に高まる。いずれは煉瓦をコンクリートに、コンクリートを大理石に、大理石をダイヤモンドにしていかねばならないが、とりあえず今のところは段ボールを煉瓦に変えることのみに集中して、邁進していこうと思う。

俺は音楽の人。でも、絵もやって文章もやって、いつか金さえあれば映画だって撮ってみたいと思う。俺はそんな人。ものつくり和田一憩をナメるな!

ここ3日間、全く音楽を聴いていない。3日間音楽を聴かないという状況、過去にはあったのだろうか。もしあったとしてもそれは思い出せないくらい遠い昔の話だ。何せ俺は小学生の頃には既に重症、学校から帰ると喜び勇んでビートルズのテープをラジカセに放り込むような子供だったから。

思っていたほど辛くはない。頭の中で常に音楽が鳴っている感じがあって、それほど辛くはない。ただ、辛いのはこの状況そのものだ。ついにここまで来たか...というこの状況そのものにものすごい怒りと情けなさを感じる。

今度、自由に自分の好きな音楽を聴ける機会が巡ってきたら、『サティスファクション』を爆音で聴こうと思っている。これでも喰らえ的に。

「楽しむ」というのはなにもものすごい笑顔を浮かべて涎を垂らしながら「楽しひ〜!」などと叫んでいるような状態だけをいうのではない。ものすごく重い内容の小説、例えば「人間失格」などを読んで感銘を受けたら、それはそれで楽しんでいると言えるはずで、そういった意味で俺はこのブログを皆さんに楽しんでいただけたらなと日々思っている。

俺は絵や音楽と同じく、このブログに寄せる文章もまた、俺の一つの作品だと思っている。そう思って書いている。出来る限り赤裸々に、そしてこれから俺という人間とこのブログの存在を知るひとたちが1から読んだ場合にも楽しめるように時事的なことはなるべく書かないようにしている。要するに、時間の経過とともに風化するような文章は書かないように配慮している。

俺の日常はあからさまに葛藤の連続である。極端に楽しいことも極端に悲しいことも極端に辛いこともさほど長続きせず、ただただ浮き沈みを繰り返している。一見、堂々巡りのようだが実は一つの方向に向かっている、と信じたいしこの先それが自分の夢的なものと少しでも関わっていってくれれば...と心から願っている。

このブログのアクセス数、俺が思っている以上に凄いらしい。ということはみんな本当に大変なんだな。本当に頑張ってるんだなと思う。そんなひとたちの為のブログであり続けるよう、出来る限り頑張って、葛藤しつつ生きていこうと思う。

「イヤ」と言いたい。

俺が唯一捨てないし売らない持ち物、才能みたいなものって、数値化した場合どれくらいのもんなんだろう。

『才能計測機』誰か発明してくれないだろうか。是非とも測ってみたい。思いのほか駄目なのか、思いのほかイケてるのか。思いのほか駄目なら一瞬にしてこの生き方をあきらめるし、思いのほかイケてるのなら『才能測定認定証』みたいなものを出してもらって、とある人物を黙らせてから即レコード会社に足を運ぶんだけど。

もし仮に『才能測定機』があったとして、俺の予想ではレノンの100を筆頭に、カートと伊丹十三が85、うちの師匠(北野武)とノエルが83ぐらいだと思う。で、俺は、正直、83くらいだと思う。

右手にトイレットペーパー12R、左手に箱ティッシュ5箱といった状態で言うのもなんやけど。

無意味な休日。

再起不能となり果てた役立たずのウォークマンをゴミ箱に投げ捨てて近所の酒屋にビールを買いに出掛けたところ一人のビニール袋とビニール傘を下げた肉体労働者風のオッサンが話しかけてきたので話を聞くと北千里へ行きたいが方角がわからずさらにここまでくる新幹線の中で財布を落としたとのことで「参ったなあ」と呟く目が「めぐんでくれ」と訴えていたので270円渡してやったらさほど礼の言葉も述べず駅の方へ歩いて行った。

無意味な晴天。

「何人も人を試してはいけない」というのはキリストの言葉。俺はキリスト教徒でも何でもないが、この言葉は好きだ。本当にその通りだと思う。

じゃ、「試練」って何だ?エ!コラ!「試練」って何だ?説明してくれ。これは何だ?この日々は何だ?この窮屈な感じ、これがその「試練」か?一体何の為の?人は試されて初めて育つのか?試されなきゃ育たんのか?え?そっか。わかった..。じゃキリストはどこへ行ったんだ?彼の言葉は?宇宙かどっかに、それこそ伊丹の最北端とかにバビュ〜ン!って飛んでったんか?え?!そうなの?飛んでったの?そっか。じゃ、しょうがないやね...。

明日も無言。死んだふり。

そんなこんなで俺の中で音楽に対する気持ちが再び手に負えんばかりはち切れんばかりに膨らみだした矢先の今日、ウォークマンが壊れた...。もう本当に本当にシャレにならない。神様不在。明日から音楽が聴けない。命綱が切れた。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

俺、何かしたか?何か悪いことしたか?したかも知れない。してるかもしれない。いや、してるだろう。でもそれにしてもむごい。むご過ぎるだろうこのタイミングでこの仕打ちは...。

このブログを読んでくれている皆さんに、もしご存知なら是非とも教えていただきたいことがある。

自分の好きなCDを持ち込んでデカイ音で聴きながら酒が飲める場所、方法をもしご存知なら教えていただきたいのだ。俺も考えてはみたのだが、まずスタジオは駄目だ。酒が飲めないし、酒は飲めたとしてもタバコが吸えない。カラオケBOXって手もあるがこれは絶対に嫌だ。雰囲気がものすごく嫌だ。あんな所でそんなことをするというのは何かものすごく落ちぶれた感じがする。だから、スタジオとカラオケBOX以外で何か良い場所、方法をご存知の方は是非ともここにコメントを寄せていただきたい。よろしくお願いします。

テレビがうるさい。

ソロ転向後、俺は新曲をやらんのならライヴはやらんと決めている。そして、今年中にもう一度ライヴをしたいと思っている。

次のライヴで披露する新曲はバラードにはならないと思う。そして、かなりニルヴァーナを、カート・コバーンを意識したものになると思う。必要最低限のコードのみを使って、しかしながらメロディアスで、その上で言いたいことを叫び倒す感じの曲。に、なると思う。

最近、ニルヴァーナばかり聴いている。それも未発表音源で、ものすごい音の悪いやつ。昔から好きだったが、今になってやっとちゃんと聴こえてきた。

凄い。

常に、毎日の毎秒毎分を、ビビりながら生きていくというのは地獄だ。

子供の時、教師を筆頭に大人に、ことある事に「夢をみつけなさい」と言われた。俺に夢の世界と夢を持つことの重要性をこれでもかと褒め称えて見せて見せつけて、いざ俺が大人の世界に足を踏み出そうとする年齢に達すると今度は一転して「社会は、現実はそんなに甘くない」というようなことばかり吐かしだした。夢をみるというのは怠け者のやることだと吐かしだした。「夢みたいなことを言うな」と、大人ばかりではなく、一緒に葛藤しつつ育ったはずの友人たちまでが吐かしだした。そして、酷い奴になると「あなたは遊びたいだけ」などと吐かしだした。

幼稚園や保育園に行くと、色とりどりの折り紙やぬいぐるみで取って付けたように夢の世界を演出してある。

平気な顔をして嘘がそこにある。なんて残酷なことをするんだろうと思う。

FLOWER 笑って許す君の姿

綺麗な一つ屋根の下の平和

飾り立てる必要などなく

ありのままが一番絵になる

花のある風景 光と影

きつねの嫁入り 恵みの雨

雨降る日は降る日の「I LOVE YOU」

風邪気味なら気味で「I LOVE YOU」

誰が何と言おうが恋のままで

終わることのない恋の中で

男の子らしく見上げる空

女の子らしく見つめる花

二人寄り添って眺める時計

見果てぬ夢

FLOWER 一輪お二人に

憂鬱の黒い雲が落とす影

死んだふりの僕を照らすスポットライト

晴天の日くらい不安な日はなく

嵐の前触れを探して疲れ果てる

僕の名前さえ知らぬ人の笑顔が存在が嬉しくて

ウォークマン ポケットに忍ばせ

金平糖 一つ二つ三つ数えて歩く

宝物を見つめ直すんだ

壊れ物を隠し通すんだ

言葉を捨てて

今日 不本意 明日 不本意 あさっては...

残り僅かな自尊心 僕の音楽の色

今日 不条理 明日 不条理 あさっては...

利口に生きていこう

器用に生きて味気なく死のう

宝物を握りしめるんだ

壊れ物を守り通すんだ

声を殺して

今日 不本意 明日 不本意 あさっては...

残り僅かな自尊心 僕の音楽の色

今日 不条理 明日 不条理 あさっては...

利口に生きていこう

器用に生きてご希望通りの音楽を聴こう

ご希望通りのTシャツを着てSEXをしよう

プロフィール

いっけい

ビートルズ好きの両親の元、ビートルズを子守唄に育ち物心が付く前から音楽に慣れ親しむ。
学生時代からいくつかのバンドを結成し関西を中心にライブに明け暮れる。
現在はソロでの音楽活動に加えイラストも手掛けるマルチアーティストとして活動の幅を広げている。

いっけいの楽曲が聴ける!! MySpaceはこちら

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